永井荷風『江戸芸術論』

というわけで、ゴッホの話をすることにした。『ゴッホの日記』を中心に話すつもりだが、浮世絵について触れないわけにはいかない。本棚に永井荷風の文庫『江戸芸術論』を見つける。いつ買ったのか、ちゃんと読んだかどうかは忘れてしまっているが、目を通すと、今回話そうと考えていることに大いに関わるものだった。

…特殊なるこの美術は圧迫せられたる江戸平民の手によりて発生し絶えず政府の迫害を蒙りつつしかも能くその発達を遂げたりき。当時政府の保護を得たる狩野家の即ち日本十八世紀のアカデミイ画派の作品は決してこの時代の美術的光栄を後世に伝ふるものとはならざりき。しかしてそは全く遠島に流され手錠の刑を受けたる卑しむべき町絵師の功績たらずや。浮世絵は隠然として政府の迫害に屈服せざり平民の意気を示しその凱歌を奏するものならずや。官営芸術の虚妄なるに対抗し、真性自由なる芸術の勝利を立証したるものならずや。宮武外骨氏の『筆禍史』は委ぶさにその事跡を考証叙述して余すなし。余またここに多くのいふの要あるを見ず。

宮武外骨の『筆禍史』も読まなければならなくなってしまった。

版画と複製

一点の美術作品を目指した創作版画。日本では版画家という職業が認められたが、欧米には版画家という肩書は無いと聞いている。たとえ自画・自刻・自摺であっても、それは複製を前提とした「Print」であって、複製芸術として成立した。ある創作版画家は、海外のギャラリーでは刷りが少しでも違うと受け取ってくれないと嘆いていた。たとえば恩地孝四郎の版画は完全な複製が出来るものは少ないがしかし、装丁作家でもあった恩地の作品は印刷を前提としたものも多かった。それは商品になりにくいものだ。そういう意味においても版画は民衆芸術なのだろう。

「恩地孝四郎」展を観る

すべての芸術作品がそうだというわけではないが、一つの作品の中には1冊の本以上の情報が詰め込まれている。あのミッシェル・フーコーの『言葉と物』が、ベラスケスの一枚の絵「待女たち」の分析から導かれたように。

onchi_tirashiH1_150dpi_CS4-724x1024東京国立近代美術館で開催されていた「恩地孝四郎」展を観る。400点もの作品が展示される大規模な展覧会だった。ひとつひとつ丁寧に見ていくには作品が多すぎて、出口にたどり着くころにはかなり疲れてしまった。

『月映』の木版画にみられるドイツ表現主義前衛=左翼的な構成主義に影響された作品から、油彩画のような表現を目指した「創作版画」への変遷、装丁作家としての成功と、戦前・戦中の “版画芸術を戦力化する” 日本版画奉公会の理事長就任による右傾化、終戦後のイデオロギーから離れるための抽象化など、日本の芸術界の苦難と妥協の歴史も感じることのできる展覧会だった。

恩地孝四郎に学ぶことは多い。木版画や装丁の可能性を切り開いた作家として、戦争協力を厭わなかった作家として、日本の美術史には欠かせない存在なのだから。

リトグラフ用インクで木版を布に摺る

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A3BCで制作した「沖縄米軍基地建設反対運動連帯木版バナー」はいつものサクラの版画用油性インクではなく、版画用品店にあるリトグラフ用のインクを使った。以前、このインクで試してみたときはサクラのインクに比べて乾くのが遅い気がしたので、ドライヤー(インク乾燥促進剤)を混ぜて摺ったのだが、量が少なかったのか、乾きが遅い。入れる量は2~3%のはずだ。あと、インクの硬さ。リトグラフをやっていたときはワニスでユルめた記憶はなく、とにかく練って固さを調整していたが、それでも硬かったようで、ローラームラではないムラが出たり、インクがはがれ易い感じだ。沖縄に送るため、もう一度木版バナーを摺るということで、それに向けて小さな版で試してみた。ワニスを混ぜてサクラのインク(チューブ入り)程度までユルくして、ドライヤーを多めに(5%程度)入れてみる。リトグラフ用インクの方が匂いが仄かだ。

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端切れが無かったので、白いTシャツに『トマトの日』を摺った。今年の夏は空襲の、原爆の悲しみを背負って生きよう。

前橋映像祭三つ折りパンフレット

前橋映像祭事務局から、三つ折りパンフレット(タイムテーブル)用のデザインを木版で作れとの司令が下った。この映像祭ではドキュメンタリー、ドラ マ、ショートフィルムや実験映像など、多様な作品が上映される。デザインによってひとつの方向性を示してしまわないよう、文字だけでデザインする。自分の 傾向として、ダブルイメージ(見方によって二種類のイメージが見えるものではなく、二つのイメージを重ね合わせるコクトー的な)を使いたがるので、木版水 彩三色摺りで、「二〇一五」と「前橋映像祭」をストレートに重ねあわせたロゴ、タイムテーブルなどの詳細が入る部分に、光を放つレンズをモチーフに楕円を 散らした。

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三つ折りパンフレットは当日配布されると思いますので、ぜひ来場して手にとってください。前橋、案外東京から近いです。

◎第六回前橋映像祭 6月27日(土) – 6月28日(日)前橋弁天通り
https://www.facebook.com/events/834377299971214/

明るい未来見えず…原子力PR看板撤去へ

原発震災後にメディアで散見されることになった、双葉町の原子力PR看板。特に「原子力明るい未来のエネルギー」という看板と標語は、アウシュビッツ強制収容所の入り口に建てられた、「ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)」と直結する。昨年、原爆の図丸木美術館で開催された「今日の反核反戦展2014」にA3BC(反戦・反核・版画コレクティブ)で出品したバナーの一部としてシンプルな木版を作成した。空に漂う雲は エドヴァルド・ムンク「叫び」から引用した。

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2015年3月11日、東日本大震災から4年目を迎えた日、河北新報オンラインニュースに双葉町の原発看板撤去のニュース記事が掲載された。

「明るい未来見えず…原子力PR看板撤去へ」
東京電力福島第1原発の立地町で、全町民が避難している福島県双葉町は、原子力のPR看板を掲げた町内2カ所のゲートを撤去する方針を決めた。老朽化が理由。看板は、原発との共生を目指した町の象徴だった。帰還困難区域の町中心部で町道をふさぐように倒壊している家屋も除去する。
新年度の一般会計当初予算案にゲートの撤去費410万円と、家屋除去を含む町道環境整備費3200万円を計上した。
国道6号に面した町体育館前のゲートは1988年の設置で、表裏に「原子力明るい未来のエネルギー」「原子力正しい理解で豊かなくらし」と表記。役場入り口のゲートは91年に完成し、「原子力郷土の発展豊かな未来」「原子力豊かな社会とまちづくり」と書かれている。標語は町民から募集した。
ともに鉄骨やトタンで造られ、文字板はアクリル製。長期避難で管理ができず、腐食が進んだ。町復興推進課は「作業員や一時帰宅した町民の安全性を考え、撤去を決めた。標語の内容は関係ない」と説明。伊沢史朗町長は「保存は考えていない」と述べた。
撤去は夏以降になる見通し。いわき市に避難する男性(57)は「安全神話が崩れ、避難している町の現状を考えれば、看板の言葉はふさわしくないが、町の歴史を表してもいる。撤去は一つの節目で、複雑な気持ちだ」と話した。
道路に倒壊した家屋の除去は、旧国道の町道沿いにある11カ所が対象。所有者の了解を得た上で、道路にはみ出した部分を取り除く。地震や長期避難による老朽化で崩れた家屋は、無人と化した町の荒廃を物語っている。
河北新報オンラインニュース

そのまま無人の街に建ち続けさせるわけにもいかないのだろうが、こういう教訓はきちんと保存するべきと思う。

三陸海岸沿岸には200基もの津波記念碑が建てられていると聞く。
高き住居は児孫の和楽、想へ惨禍の大津浪、此処より下に 家を建てるな。

 

そして反対することこそが芸術の根源です

CBaGxcgUUAAGqDD-474x613粛々とろくでもないことが進む一年にしないためにも、
A3BC
では反物木版カレンダーを製作しました。
反戦・反核・反物・版画カレンダーです。
思いの外「反」が一つ増えました。

そして反対すること。
それこそが芸術の根源です。

折口信夫の「鬼の話」から、宮沢賢治の「春と修羅」まで、
とにかく芸術は「反」なのです。
そしてそれは「版そして版画」であるはずなのです。

版画を布地に模様づける方法

永瀬義郎の『版画を作る人へ』の中に、木版を布に摺ることについての記述がある。

版画を布地に模様づける方法
布地に模様を摺って、カーテン、テーブル掛、装幀布などを作るのは中々雅致があるものです。女帯なども無論できるわけですが、広い面積の上に大柄なものを摺ることは染色の方法でないと難しい。芋版で、模様を一面に無造作にスタンプ押しにしても面白いし、インド産の動く石(ゴムのような石です)に模様を彫り、油絵の具で畳摺りにしても原始的なものが出来て愉快です。薄絹の裏打したようなものでしたら、紙を摺るのと同じ方法で、バレンで摺れますが、少々厚い布だと、バレンが利きません。で、全て布に模様をつける場合は、大きな面積に絵を摺るという事を避けて、小さなカット風の模様を一つ一つスタンプ摺にして、うまく案配するのです。あるいは大小三個位の異なった模様を組み合わせるのです。摺りは全て紙のように明瞭にいきません。明瞭でないところにまた面白みもあるわけですが、木版になるとなお一層困難になります。小さな紙入れぐらいのものでしたら、どんな様式の版でも楽ですが、カーテンのような大物になると畳摺りも出来ませんから、平らな台の上へ乗せて、部分部分摺って行くのです。木版でしたら、版木の上に片足を乗せ、全身の重みで圧し摺りにするのです。この圧し摺りにする際は必ず圧し摺りにする部分の布の下に、コルク版か厚いゴム板を敷かないとうまく摺れません。

IMG_1519A3BC: 反戦・反核・版画コレクティブでは布摺りを試していて、それは重要な要素のひとつなのだが、どうしても摺りにムラができてしまう。それもひとつの味になりますが、もう少しなんとかしたい。油性のインクで摺るので、ゴム板は長持ちしそうにないし、コルク板はチップの隙間が浮いてきそうだ。ホームセンターをうろうろしていたら、テーブルの上に敷くようなビニールシートがあった。今下敷きにしているカッターマットよりは弾力がある。ゴム板よりは硬いが、少しは油に強そうだ。試しに少し切り売りしてもらう。週末に木版を布に摺る予定があるので試してみたいと思う。

謎の「バレン」

1108item-105小学生の美術の時間、版画の授業で必ず使う「バレン」。何の疑問もなく受け入れていたし、よくある韓国経由で入ってきた中国の文化だろうと思っていたが、どうやら違うらしい。バレンが一番信頼できる気がして、自作のものを愛用していますが、よく考えてみると、それほど長持ちしない竹皮を使ったりしなくても、いまや他にいくらでもやり方あるだろうという摺り。海外ではプレス機か、手摺りの場合はスプーンを使うのが主流のようです。

世の中にはバレンについて研究したりする奇特な研究者もいて、ネットでも公開されている。著者のヒルド麻美さんは「バレン」ドイツ語説を唱えていました。

クリックしてIILCS_21_1HILD.pdfにアクセス

「バレン」という語は1400 年代,室町時代から日本に存在していたが,それは,木版や印刷とは関係なく,「たわし」が出現する1700 年代後期まで,バレン(バリン)の根から作った,物をこすってよごれを落とす一般的な道具の名称であったということ,一方『日葡辞書』『羅葡日辞書』が木版関連の用語を周到に収録しているにもかかわらず,摺り道具だけが記載されていないことから1600 年代までは日本には確立した摺り道具がなかったと考えられること,こすり洗いの道具である「バレン」が摺り道具に転用された例も記載されていないという事実,グーテンベルク式印刷機とともに日本に持ってこられた円形の “Ballen” が,1600 年代初期にキリシタン版の木版部分の摺りに使われていたと考えられること,そのようなキリシタン版の印刷は九州でのみならず京都でも行われたという事実,それに続く時代の延宝から正徳(1673 ~1715)にかけて,木版における諸技術が大発展をとげ,日本の円形の摺り道具が考案されたと考えられる時期的な前後関係,および“Ballen”という発音が日本人に聞き取りやすく,表記しやすく,借用しやすいという音声的理由から,日本の摺り道具「バレン」は,木版の上に置いた紙を上から摺る“Lederballen”ないしは版面にインクをつける道具“Ballen”という,グーテンベルク式印刷機とともに日本にもたらされた円形の印刷関係道具のドイツ語名称から,17 世紀後期から 18 世紀初頭に日本語に借用された語だと推測する。

先生の一人だった城所祥氏が参加していた「鑿の会」という木口木版グループのグループ展か何かに行った時、そのメンバーたちが熱く交わしていたバレン談義が懐かしい。城所祥氏の作品は好きだったし、小さな木口木版を1点持っているのですが、その後若くして(53歳、自分と今の歳と変わらない)亡くなったことを今ネットで知る。ご冥福をお祈りします。