《ブリュッケ》後日談「表現主義と戦争」

《ブリュッケ》は一九一三年に事実上解散し、翌年には第一次世界大戦が勃発します。

dixまだ見ぬ戦争は、破壊と新生、堕落の浄化、英雄的な自己犠牲などのポジティブイメージをもたらします。表現主義者は「近代科学=スペクトル」に依拠し客観的な観察に終始した印象主義からの脱却を求め、過去の民衆美術を参照しつつ、社会や生活における主観の表現を追求していきますが、あまり主観に頼りすぎると、未来派のようにファシズムとの親和性を持ってしまうことがあります。

表現主義者は反戦の傾向が強かったのですが、未来派の影響もあってか、この戦争には、社会の再生の期待を抱いていた者も少なくなかったようです。しかし、現実は世界大戦の勃発により「青騎士」のカンディンスキーは国外に追い出され、マッケ、マルクは戦死、マックス・ベックマンや《ブリュッケ》キルヒナーは精神を病んでしまい、ドイツの敗戦もあり、表現主義は大きな打撃を受けます。

戦後の表現主義者は痛烈な反戦や社会批判を訴えていきますが、ナチスが全権を掌握し、美術家を目指したこともあるヒトラーにより、それらの多くの作品/作家は「退廃」の烙印を押され、一九三七年に全国巡回し、皮切りのミュンヘンだけでも二百万人を超える観衆が押しかけた「退廃美術展」の開催により、表現主義者の多くが、制作や発表を禁じられたり、監視の対象となりました。ついにキルヒナーは絶望し自殺、他の表現主義者も国外退去や隠匿生活を余儀なくされています。

表現主義者の苦難を知り、芸術によっても、反ファシズム、反戦(そして反核)を訴えていく、そのような作品制作が、今求められているはずです。

芸術家集団《ブリュッケ》小史

アルフレート・ヘンツェン教授への手紙 エーリヒ・ヘッケル
表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

brücke……われわれは一九一三年のために小史の出版を企てました。それはわれわれの一人一人の絵の手刷りやリトグラフを含むはずであり(後者はキルヒナー制作)、それにキルヒナーが文章を書きました。この文章は、シュミット=ロットルフ、オットー・ミュラー、および私の目から見て、事実と、われわれの綱領的なものを拒否する態度に矛盾していました。そこでわれわれは小史を出版しないことを決めました。みんながそれぞれの版画と文の一部を持ちました。その後キルヒナーはスイスで四人の肖像画についている表紙を彫り、冊子を二、三部作りました。

Erich Heckel: BRIEF AN PROF. DR. ALFRED HENTZEN

一九〇五年に始まったアートコレクティブ《ブリュッケ》も、一九一一年にその活動の拠点を大都市ベルリンに移し、活躍の機会を得ると同時に、集団としてより、個人としての活動が多くなり、結成の翌年から賛助会員に配布していた「年次画帖」の一九一三年の号にキルヒナーが書いた「《ブリュッケ》小史」に対する意見の衝突によって、事実上解体することになります。

芸術家集団《ブリュッケ》小史(一九一三)エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー
表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

1902年画家ブライルとキルヒナーが知り合った。兄がキルヒナーの友人であったので、ヘッケルがそれに加わった。ヘッケルがケムニッツ以来の友人であるシュミット=ロットルフを連れてきた。これらの若者がキルヒナーのアトリエに集まっていっしょに制作をし、ここであらゆる造形芸術の基礎である裸体画を、天性の自由な姿において勉強するという可能性が生まれたのである。この基礎の素描からみんなに共通の感情が感情が生まれた。生活から創造への刺激を受け取り、その体験に従うという感情である。『世俗に抗して』という書物を読んで、ひとりひとりが自分の理念を、描いたり書いたりして、それぞれの個性を較べ合った。このようにして全く自然に、《ブリュッケ》という名をもつ一つの集団が生まれたのである。キルヒナーは南ドイツから木版画をもって帰ったが、それは彼がニュルンベルクの古い彫法に感動して再び取り上げたものであった。ヘッケルは再び木の人物像を彫み、その技法をキルヒナーが彩色木版画において発展させ、石や錫の鋳型のなかで凝結した形のリズムを求めた。シュミット=ロットルフは、最初のリトグラフを石で試みた。グループの最初の展覧会はドレスデンのそのアトリエで行われたが、全く認められなかった。しかしドレスデンの町は、風景の魅力と古い文化で多くの刺激を与えてくれた。この町で《ブリュッケ》は、クラーナハ、ベーヘムその他の中世のドイツの巨匠のなかに、美術史上の最初の拠点を見出したのである。ドレスデンでアミエの展覧会が行われた時、アミエも《ブリュッケ》の仲間に加えられた。彼に続いてノルデも加わった。彼の幻想的な作風が《ブリュッケ》に新しい特色を与え、われわれの展覧会を彼の興味深いエッチングの技法で多彩なものにしてくれた。一方彼もわれわれの木版の技法を知るようになった。彼の招きでシュミット=ロットルフがアルゼンの彼のところに行き、後にシュミット=ロットルフはダンガストに赴いた。北海のきびしい風光が、とくにシュミット=ロットルフの作品に、記念碑的印象主義をもたらした。その間キルヒナーは、ドレスデンで凝結した構図を発展させ、民族学博物館のネグロ彫刻や南洋の角材彫刻のなかに、自己の作品と共通するものを見出した。アカデミックの不毛から自由になろうとする努力が、ペヒシュタインを《ブリュッケ》に導いた。いっしょに仕事をするためにキルヒナーとペヒシュタインは、ゴルベローデに出掛けた。ドレスデンのリヒター画廊で、新しい仲間を加えた展覧会がひらかれた。この展覧会はドレスデンの若い芸術家に大きな感銘を与えた。ヘッケルとキルヒナーは、新しい絵画を空間と共鳴させようと試み、キルヒナーは彼の空間を壁画や蠟けつ染で飾り、ヘッケルもそれに協力した。一九〇七年ノルデが《ブリュッケ》から出ていった。ヘッケルとキルヒナーはモーリッツブルグ湖畔に行き、戸外で裸婦像の研究をした。シュミット=ロットルフはダンガストで、彼の色のリズムの完成に努力した。ヘッケルはイタリアに赴き、エトルスク美術の刺激をもち帰った。ペヒシュタインは装飾の依頼を受けてベルリンに行った。彼は新しい絵画を分離派展に出品しようと試みた。キルヒナーはドレスデンで、手刷りのリトグラフの技術を知った。一九〇九年に、教職についたブライルが《ブリュッケ》から出ていった。ペヒシュタインはダンガストのヘッケルのところに行き、同じ年二人は、湖畔で裸婦像を描くためにモーリッツブルグのキルヒナーのところにやってきた。一九一〇年ドイツの若い芸術家が古い《分離派》で拒否されたので、《新分離派》創設の呼声が起こった。《新分離派》におけるペヒシュタインの位置を応援するために、ヘッケル、キルヒナー、シュミット=ロットルフもその仲間に加わった。新分離派の最初の展覧会でかれらはミュラーと知り合った。彼のアトリエで、かれらが非常に高く評価していたクラーナハのヴィーナスを再び見た。生と作品との感覚的な調和が、ミュラーを《ブリュッケ》の当然の会員にした。彼はわれわれに泥絵具の魅力を教えた。《ブリュッケ》の努力を純粋に保持するために、《ブリュッケ》の仲間は新分離派を脱退し、ベルリンの分離派には単独で出品しないという約束をたがいに取り交わした、グルリットの美術館の同じ場所で引き続き《ブリュッケ》の展覧会が行われた。ペヒシュタインがグループの約束を破り分離派の会員になり除名された。《ゾンダーブント》が一二年《ブリュッケ》をケルンの展覧会に招待し、ヘッケルとキルヒナーは会場の一室に壁画を描いた。《ブリュッケ》の仲間の大部分は今ベルリンにいる。《ブリュッケ》はここでもその内的なつながりを堅持している。《キュービズム》や《未来派》などの今日の潮流に影響されることなく、現実の芸術の基盤である人間の文化のために闘っている。この努力こそ、美術界における今日の位置を《ブリュッケ》に与えたのである。

Ernst Ludwig Kirchner: CHRONIK K. G. BRUCKE 1913

運動の木版画とドイツ表現主義

190620世紀における東アジアの版画の興隆/復興は、魯迅による熱烈なケーテ・コルビッツの推奨を見てもわかるように、ドイツ版画の影響が強いようだ。メキシコの木版画や現在の東南アジアの政治的な木版画の表現は「エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー」のスタイルに似ていると思い、ドイツ表現主義について調べてみると、キルヒナーたちはドレスデンで《ブリュッケ》という素人アートコレクティブを作って共同生活しながら、制作活動を行なっていたとのこと。

ドレスデン、一九〇五年《ブリュッケ》の結成とその画家たち
――共同生活と芸術――

われらはみんな仕事仲間 ドレスデンのベルリン通りに、空いている靴屋の店を借り、そこを共同アトリエとして、画を描いたり議論を闘わしたりしている青年たちがいた。一九〇五年のことである。周知のようにこの年は、パリのサロン・ドートンヌにおいてマティスやブラマンクの絵が《フォーヴ》(野獣)と罵られた年であったが、不思議にもこの同じ年に、ドイツにおいて芸術家集団《ブリュッケ》が出発したのである。
これらの青年たちは、二一歳のシュミット=ロットルフ、二二歳のヘッケル、二五歳のブライルとキルヒナーという、ドレスデン工科大学で建築を学ぶ学生たちであった。かれらは自らを芸術家集団《ブリュッケ》と呼んだが、美術について専門的な訓練を受けたものはなく、これまで素描や水彩を熱心に描いてはいたが、油絵を描くことはまれで、その意味でいまだ専門的な画家といえるものではなく素人の集まりであった。後に詳しく触れられるが、ヘルヴァルト・ヴァルデンが率いる週刊誌《シュトゥルム》の運動、また政治・社会問題も論ずるペェムファート編集の《アクツィオーン》中心の運動、さらに、雑誌《青い騎士》による運動などの、ドイツ表現主義といわれる芸術運動は、絵については独学の、この若い素人によってはじめられたといえるのである。

表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

8月6日月曜日『トマトの日』

8月6日はトマトのことで頭がいっぱいになる。小学生の時、図書館で一度きり読んだ話を毎年思い出す。本の題名も思い出せないけれども、下に引用する中泉西国民学校の話を、原爆の物語にした本だったことは忘れていない。

aug6

この日、今の磐田西小学校、その当時は中泉西国民学校といいましたが、家に帰って家族といた子どもたちが5人亡くなっています。
5月19日は西小にとっても大切な日なのです。
いずれも死にたくなかった、生きたかったにもかかわらず、戦争で理不尽にも命を絶たれてしまったのです。爆撃で死んだ妹が「赤いトマト」を井戸水に冷やしてあったそうです。兄弟で一緒に食べようと思っていたのでしょう。お兄さんは「赤いトマト」を手にすると今も涙が止まらないと言います。
戦争の傷跡は私たちの身近なところにあるのです。68年前に何があったのか、もっと知ろうとし、調べていきましょう。広島の原爆のことを知るには『はだしのゲン』があります。身近なことは地域の方や祖父母に聞きましょう。今も世界には戦争や暴力があります。
私たちの身の回りでもケンカやいじめの芽が絶えず出てきます。その時、どうしたらいいか、命を守るために何ができるかを考え、自分の命、友だちの命、家族の命を守る力をつけていきたいと思います。

西っ子 第8号:平和とは何だろう?命を守るとは?ツヨシさんの発表をもとに考える

似顔絵の腕が無い

 

photo1(1)地下大学で「米騒動から原発震災へ───2014年に大杉栄が降り立つ 栗原康『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)をめぐって」というイベントをするし、「シュトルム・ウント・ドランクッ」のロードショーが8月にあるし、岡田裕子さんの息子がpythonで遺伝的アリゴリズムを使ってエスペラントを作る仕組みをパイソン・カンファレンスでプレゼンするし、久保貞次郎研究所は「戦争、差別、暴力の一切無い社会、全ての人が芸術家である社会にむけて」頑張っているし、ここはひとつ大杉栄の木版でもと、スケッチしてみるも全然似ません。ちょっとくずれた男前というのはかなり難しい。というより、若い頃に2,3度やったテレビ放送のための法廷絵かき。連合赤軍の永田洋子もロス疑惑の三浦和義も全然似てなかったので、似顔絵の腕がでんで無かったということを思い出したわけです。

永瀬義郎著 「版画を作る人へ」

tsukuruhito魯迅が木刻運動を始めるにあたって中国に紹介した、永瀬義郎著「版画を作る人へ」を読む。大正11年に出版され13版を重ねた、美術書としてはベストセラーで、魯迅だけでなく、棟方志功や谷中安規など、その後の版画家たちへ影響を与えた版画の技法書。

とてもいい本で、面白く読みました。若いときに読んでおけばよかったのですが、その頃は戦後現代美術に眼を焼かれてしまっていたので、永瀬義郎の作品などは古臭いものに思えて、見向きもしてなかったのです。

「創作版画」は版画の「絵画の複製」からの独立運動だったのですが、一回性(アウラ)に憧れるあまり、その重要な要素「複数性」をないがしろにしてしまった。永瀬義郎は「版画を作る人へ」の中の「工房日誌抄」で「…それから価値ある版画は一枚だけしか出来ないと云う事を肯定していたのも考えが一寸足りなかった。版画の使命は実に彼の作品の公布性にあるということを知らなかったのだ。暴言は慎む可し慎む可し。」と反省しています。

魯迅は「創作版画運動」などにヒントを得て、帰国後「木刻運動」を始めるのですが、「創作版画」の作品自体には興味を失っていたようです。「創作版画」は美術としての版画の確立とともに、精神の自由や民衆が芸術とふれあう機会を求めていたのに対し、「木刻運動」は中国民衆の心の革命を公布的に訴えるものであったので、魯迅には弱々しいものに思えたのかもしれません。

【民衆版画】東京大空襲ー墨田川

photo1
かつての空爆の東京の焼け野原の写真をスケッチし、それを下絵にした木版の試し摺り。
一彫りひとほりが、戦火にのまれて亡くなった方々への追悼に思えた。
合法であっても戦争という無差別殺人をすることもされることも、二度とあってはならないと私達は誓ったはずだ。