芸術家集団《ブリュッケ》小史

アルフレート・ヘンツェン教授への手紙 エーリヒ・ヘッケル
表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

brücke……われわれは一九一三年のために小史の出版を企てました。それはわれわれの一人一人の絵の手刷りやリトグラフを含むはずであり(後者はキルヒナー制作)、それにキルヒナーが文章を書きました。この文章は、シュミット=ロットルフ、オットー・ミュラー、および私の目から見て、事実と、われわれの綱領的なものを拒否する態度に矛盾していました。そこでわれわれは小史を出版しないことを決めました。みんながそれぞれの版画と文の一部を持ちました。その後キルヒナーはスイスで四人の肖像画についている表紙を彫り、冊子を二、三部作りました。

Erich Heckel: BRIEF AN PROF. DR. ALFRED HENTZEN

一九〇五年に始まったアートコレクティブ《ブリュッケ》も、一九一一年にその活動の拠点を大都市ベルリンに移し、活躍の機会を得ると同時に、集団としてより、個人としての活動が多くなり、結成の翌年から賛助会員に配布していた「年次画帖」の一九一三年の号にキルヒナーが書いた「《ブリュッケ》小史」に対する意見の衝突によって、事実上解体することになります。

芸術家集団《ブリュッケ》小史(一九一三)エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー
表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

1902年画家ブライルとキルヒナーが知り合った。兄がキルヒナーの友人であったので、ヘッケルがそれに加わった。ヘッケルがケムニッツ以来の友人であるシュミット=ロットルフを連れてきた。これらの若者がキルヒナーのアトリエに集まっていっしょに制作をし、ここであらゆる造形芸術の基礎である裸体画を、天性の自由な姿において勉強するという可能性が生まれたのである。この基礎の素描からみんなに共通の感情が感情が生まれた。生活から創造への刺激を受け取り、その体験に従うという感情である。『世俗に抗して』という書物を読んで、ひとりひとりが自分の理念を、描いたり書いたりして、それぞれの個性を較べ合った。このようにして全く自然に、《ブリュッケ》という名をもつ一つの集団が生まれたのである。キルヒナーは南ドイツから木版画をもって帰ったが、それは彼がニュルンベルクの古い彫法に感動して再び取り上げたものであった。ヘッケルは再び木の人物像を彫み、その技法をキルヒナーが彩色木版画において発展させ、石や錫の鋳型のなかで凝結した形のリズムを求めた。シュミット=ロットルフは、最初のリトグラフを石で試みた。グループの最初の展覧会はドレスデンのそのアトリエで行われたが、全く認められなかった。しかしドレスデンの町は、風景の魅力と古い文化で多くの刺激を与えてくれた。この町で《ブリュッケ》は、クラーナハ、ベーヘムその他の中世のドイツの巨匠のなかに、美術史上の最初の拠点を見出したのである。ドレスデンでアミエの展覧会が行われた時、アミエも《ブリュッケ》の仲間に加えられた。彼に続いてノルデも加わった。彼の幻想的な作風が《ブリュッケ》に新しい特色を与え、われわれの展覧会を彼の興味深いエッチングの技法で多彩なものにしてくれた。一方彼もわれわれの木版の技法を知るようになった。彼の招きでシュミット=ロットルフがアルゼンの彼のところに行き、後にシュミット=ロットルフはダンガストに赴いた。北海のきびしい風光が、とくにシュミット=ロットルフの作品に、記念碑的印象主義をもたらした。その間キルヒナーは、ドレスデンで凝結した構図を発展させ、民族学博物館のネグロ彫刻や南洋の角材彫刻のなかに、自己の作品と共通するものを見出した。アカデミックの不毛から自由になろうとする努力が、ペヒシュタインを《ブリュッケ》に導いた。いっしょに仕事をするためにキルヒナーとペヒシュタインは、ゴルベローデに出掛けた。ドレスデンのリヒター画廊で、新しい仲間を加えた展覧会がひらかれた。この展覧会はドレスデンの若い芸術家に大きな感銘を与えた。ヘッケルとキルヒナーは、新しい絵画を空間と共鳴させようと試み、キルヒナーは彼の空間を壁画や蠟けつ染で飾り、ヘッケルもそれに協力した。一九〇七年ノルデが《ブリュッケ》から出ていった。ヘッケルとキルヒナーはモーリッツブルグ湖畔に行き、戸外で裸婦像の研究をした。シュミット=ロットルフはダンガストで、彼の色のリズムの完成に努力した。ヘッケルはイタリアに赴き、エトルスク美術の刺激をもち帰った。ペヒシュタインは装飾の依頼を受けてベルリンに行った。彼は新しい絵画を分離派展に出品しようと試みた。キルヒナーはドレスデンで、手刷りのリトグラフの技術を知った。一九〇九年に、教職についたブライルが《ブリュッケ》から出ていった。ペヒシュタインはダンガストのヘッケルのところに行き、同じ年二人は、湖畔で裸婦像を描くためにモーリッツブルグのキルヒナーのところにやってきた。一九一〇年ドイツの若い芸術家が古い《分離派》で拒否されたので、《新分離派》創設の呼声が起こった。《新分離派》におけるペヒシュタインの位置を応援するために、ヘッケル、キルヒナー、シュミット=ロットルフもその仲間に加わった。新分離派の最初の展覧会でかれらはミュラーと知り合った。彼のアトリエで、かれらが非常に高く評価していたクラーナハのヴィーナスを再び見た。生と作品との感覚的な調和が、ミュラーを《ブリュッケ》の当然の会員にした。彼はわれわれに泥絵具の魅力を教えた。《ブリュッケ》の努力を純粋に保持するために、《ブリュッケ》の仲間は新分離派を脱退し、ベルリンの分離派には単独で出品しないという約束をたがいに取り交わした、グルリットの美術館の同じ場所で引き続き《ブリュッケ》の展覧会が行われた。ペヒシュタインがグループの約束を破り分離派の会員になり除名された。《ゾンダーブント》が一二年《ブリュッケ》をケルンの展覧会に招待し、ヘッケルとキルヒナーは会場の一室に壁画を描いた。《ブリュッケ》の仲間の大部分は今ベルリンにいる。《ブリュッケ》はここでもその内的なつながりを堅持している。《キュービズム》や《未来派》などの今日の潮流に影響されることなく、現実の芸術の基盤である人間の文化のために闘っている。この努力こそ、美術界における今日の位置を《ブリュッケ》に与えたのである。

Ernst Ludwig Kirchner: CHRONIK K. G. BRUCKE 1913