農民芸術の興隆と文明の没落

自由芸術大学の読書会で、宮沢賢治『農民芸術概論綱要』を読んでいる。賢治がその理想を実践しようとするマニフェストともいえる芸術論だ。農民芸術概論綱要 第2章の「農民芸術の興隆」のメモにその名前も出てくる室伏高信のベストセラー『文明の没落』に影響を受けて書かれたとされる。

ヒトラーの『我が闘争』も翻訳した室伏は戦前・戦中。戦後と思想的変節を繰り返し、戦後には日和見主義者の烙印を押され、論壇から追い出される。現在、室伏について語る人は皆無だ。『農民芸術概論綱要』を検証するためには『文明の没落』を読むことが必要なので、賢治のメモに引用の多い「文明の没落(その二)」をPDFにまとめた。『農民芸術概論綱要』の何が正しくて、何が間違っているのかを測ることが出来るかもしれない。

室伏高信「文明の没落(その二)」

https://cloud.freeart-univ.org/index.php/s/iea2ASsyCPHCm9m

農民芸術概論綱要

「芸術とは何か?」という問いを立てる時に、多くの人たちが立ち止まって考えることになる、宮沢賢治の『農民芸術概論綱要』。「芸術をもてあの灰色の労働を燃せ」、「風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」という名句ともに、「永久の未完成これ完成である」という批判の多い文節で閉じられるこの要綱は、岩手国民学校で講義した「農民芸術論」をまとめたものだ。この綱要を書いたのち、二月後には近代農業と農民芸術の学校「羅須地人協会」の設立を宣言し、理想の実践を試みました。

自由芸術大学の読書会で、マロリ・フロム『宮沢賢治の理想』の「農民芸術概論綱要」注釈を参照しながら読んでいます。しばらく続きそうなので、ぜひご参加ください。

民衆芸術運動(47)

若い男女が親しく受講しているのを見た村の人たちから、小学校で行うのは児童の教育上良くないとの批判があり、二回目の農民美術講習会は金井正の経営する養蚕業の蚕室で開かれた。部屋の広さが限られていたので、新規には受講生を募集しなかったが、二千三百四十六点もの農民美術を完成させ、終業後には昨年同様、神川小学校で展覧会を行い、日本橋三越で展示即売会を開催した。さらに大阪の三越でも展示即売を行い、売れ残ったのは十四点だけであった。『中央美術』は山本鼎の特集を組み、新聞記者でロシアの十月革命に遭遇し記事を書いたこともある大庭柯公は、寄稿した「民衆の芸術的才能」で、農民美術をプロレタリア芸術として捉えている。

開始以来僅か二年目、精確に言えば農閑の二百日目に出来上がった手際として、その出来栄えの見事なことに驚いたものである。勿論その模範はこれをロシアの農民美術に採ったものであるが、兎にも角にも初めて日本で生まれたプロレタリアの新芸術として、斯程な短時日の間に斯程な製作を生み出し得たことは、本来プロレタリア自身に芸術的素質が実在しておる為であって、その実在が些少な誘発に会って、斯くも本質を発揮した所以に他ならない。

鼎は政治的な社会運動には関わらなかったが、自由画教育、農民美術運動が社会主義者の言う民衆芸術につながっていることは十分意識していた。エッセイ「美術家の欠伸」の一説に記している。

美術が常に富裕者に奉仕して栄えた。という需要関係に認める場合にそれに論はないよ、が、しかし本来美術は単に己れを好む利己主義者で、決して労働階級に背をむけているのではなく、労働階級が美術に背をむけているんだよ。だからいつか彼らが美術を求めるようになれば、美術は彼らに順応するにきまっているのだ。美術には国境はないというが階級もないんだ。――さて、彼らの雰囲気からどんな美術が生まれるか、いわゆる貴族的な美術に対してどんな創意が示されるか?これはすこぶる興味ある問題なんだ。 (八年八月十八日信州長倉村にて)

民衆芸術運動(46)

大正九(一九二〇)年、日本橋三越での第一回農民美術製作品展覧会を終えても、山本鼎は休むまもなく奔走した。六月には大阪朝日新聞社主催の「世界児童自由画展」で講演を行い、美術雑誌『みずゑ』に「農民美術建業の趣意及其経緯」を寄稿、翌月には『中央公論』誌で「自由画教育の要点」を発表する。「自由画教育の要点」に関しては翌月の『中央公論』でいくつもの批判が掲載され論争も起きるが、自由画教育が各地に伝わるきっかけにもなっている。翌年には、日本児童自由画協会を日本自由教育協会に改変し、童謡作家の北原白秋、作曲家の弘田竜太郎、児童劇作家の斎田喬、小説家の畑耕一、アルス出版の北原鉄雄らを新たに同人として、絵のみならず芸術一般に関しての自由教育の必要性を発言するため『芸術自由教育』誌を刊行した。

「芸術教育」という、無形な大建築がはじまる
そして、この雑誌が、その設計事務所だ。
ここには、たくさんな技師が入る。
愛と、
智恵と、
勇気と、
自由をもった、たくさんの技師に
——『農民美術』創刊号

大正九(一九二〇)年の夏には、星野温泉のアトリエに滞在し、版画の代表作となる『ブルトンヌ』を完成させる。版画を芸術として発信していくために、鼎が設立した創作版画協会だったが、新進の版画家も輩出され、抽象表現よりの版画が多くなっていくとともに、リアリズムを是とする鼎の作品も過去のものとなっていったのだろうか、この作品を最後に、ほとんど版画を制作しなくなる。創作版画という言葉を生み出し、現在も「日本版画協会」として続く「日本創作版画協会」を立ち上げた鼎の美術作品としての版画は、生涯で三十点ほどしか制作されていない。

民衆芸術運動(45)

文芸に親しみ、自ら詩歌や戯曲を書いていた田中智學は『佐渡』が新文芸協会によって上演され、出演者数名が国柱会の会員になったことをきっかけに、大正十一年、文芸、芸術を法華経的に開顕教正し文芸布教活動を行うとした「芸術の霊化」宣言を講演会で発表し、演劇をメインに学習所も開き、文学から声楽、体術、絵画までもを教育しようと「国性文芸会」を設立した。

世には芸術のための芸術といって芸術は方便ではないというものがあるが、一体芸術とは人間のものなのか、人間以外のものなのか、人間のものであるかぎり、人間の為の芸術であって、芸術の為の人間でないことは自明の事である。人間の為とは必ずしも低級勧善懲悪の意味でない。人間の全精神全生活を意味する。芸術のための芸術という観念は、単に専門芸術家の芸術観念としてのみ一部分妥当なので、之を以って全き芸術の標語とするならば、それは人間の全精神生活を芸術の奴隷とするもので、未究竟の芸術観である。国性文芸会は、全き芸術の中、我が国民性の中の普遍妥当的方面を発揮し、及び日蓮主義の真面目を芸術に表現する為に生まれた 「国性文芸会開会式近づく」 『天業民報』 大正十一年十一月四日

智學は日本橋三越での「農民芸術練習所」展示会の成功に影響され、国性文芸運動の中に民衆芸術の要素を取り入れたと思われる。しかし、本間久雄が民衆芸術論争の始まりに定義付けた、大衆教化としての芸術を超えるものではなかった。

民衆芸術運動(44)

ヨーロッパから帰国後出版した『油画の描き方』は版を重ね、出版から三年後の大正九(一九二〇)年頃でも読者からの手紙が届いていた。信州生まれの新進の画家小山敬三が『ロダンの言葉』に感動し渡仏したいとの相談の手紙に鼎はこう返事し、まずは渡フランスへ行けと勧めている。

……ゴッホは実に美術と恋とは両立し難いと嘆じましたね。芸術と社会的パッションだって両立しがたいです。我々は例えば刺繍をやるとしても糸から染めてかからなければ気がすまないような芸術的敏感を植えつけられて居ますがそういう純粋な享楽と、目前の道徳的混乱に対する興奮とが、一体調和出来るものでしょうか?セザンヌもロダンも良い時に生を受けましたよ。セザンヌが今日青年として生きていたとしたら、彼は明瞭にサンジカリストであったでしょうよ。

情報も研究も少ない時代であったし、制作に集中できない自分の状況を反省しての助言であったかもしれないが、ヨーロッパでは、芸術至上主義は一つの考え方でしかなく、芸術と社会は混然一体となって運動へと向かっていた。
社会主義的な画家の協同組合を夢見たゴッホのパッションは宣教師を目指した青年時代から社会的であったし、ロダンもゴッホ同様、修道士を目指していた時期もあった。鼎の主義であったリアリズムは社会主義的要請から生まれてきたものであって、その先駆者クールベはパリ・コミューンに参加し美術委員会議長に就いている。セザンヌを指導したこともある印象派の父といわれるピサロはアナキストの機関紙に寄稿するほどの活動家だった。制作に関してはアナキストだったセザンヌだが、社会運動家となるには単に裕福過ぎただけかもしれない。

愛すること、望むこと、身震いすること。
生きること

だが、本当に言えば、
いっさいが思想です。
いっさいが象徴です

『ロダンの言葉抄』 高村光太郎訳

民衆芸術運動(43)

日本橋三越の展示会には農商務省の石田書記官が来館し、ドイツの農民工芸などの本三冊を贈られたり、別荘のサロンの農民美術での装飾の依頼を受けたりする。一人の老偉丈夫が山本鼎に金一封の入った封筒を手渡した。その封筒には

一日も早く全国に普及をいのる。
左の条件において大賛成
一 美術思想の普及
二 一国大挙副業的生産の普及
三 挙国悖風粛清の勃興

と書かれていた。その老人は「八紘一宇」という言葉をつくりだし、その理想国家主義によって、石原莞爾を満州国建国に向かわせた、在家仏教団体「国柱会」の田中智学であった。山本鼎の叔父は国柱会の幹部であったし、親友で妻の兄でもある北原白秋が翌年の大正一〇(一九二一)年に田中智学の側近であった佐藤菊子と三度目の結婚をしている。鼎も白秋も国柱会の会員にはならなかったが、少なからず影響を受けることになる。後に岩手で農民芸術運動を興そうと試みる宮沢賢治は熱心な会員であった。

民衆芸術運動(42)

副業として農閑期を活用した一回目の農民美術練習所は大正九(一九二〇)年三月三一日に終業し、その成果を示すために、四月一一日、一二日の二日間、神川村で展覧会を行う。文部次官も来観し、村では各戸に国旗を掲げて歓迎している。
第一次世界大戦中から日本では大戦景気が続いていたが、三月の株価暴落を受け、戦後恐慌が始まる。銀行取付が続出するなか、金井正が苦労して集めた農民美術研究所の購入費百十円を山本鼎に送金するが、買おうとしていた家が既に売れていたことを理由に、その金を日本橋三越での展示即売会の会場費に充て、五月二八日から三日間開催した。前日の記者会見では、衆議院選挙で普通選挙派の議員の応援をしたために選挙違反の嫌疑をかけられ、東京に潜伏中だった金井も出席し、製作の過程を説明する。
即売会では千百五十三点の作品を陳列し、そのうち九百八十八点が売れ、三百六十点の予約を受けた。売上金は五百九十円にもなった。この成果に鼎は喜び、産業としての成立を確信するが、金井から送ってもらった百十円を会場費にあて、他にパンフレット印刷に二百円もかけるなど、全体としては赤字だった。こういった鼎の経営能力のなさは、後に金井との軋轢を生むことになる。

民衆芸術運動(41)

山本鼎と金井正は自由画運動を行いつつ、農民美術運動にも着手した。大正八(一九一九)年一一月一八日、練習生募集のため、山本、金井の連名で書かれた「日本農民美術建業の趣意書」を村内に配布し、翌日には農閑期の間練習所として使わせてもらう神川小学校に青年会、婦人会の幹部にまってもらい、ロシアから持ち帰った農民美術品をならべ、工芸品と農民芸術の違いなど、農民美術の展望も含め趣旨説明を行った。
「これはハア、大ていなもんではごわせんぞ、あねいな立派なものが一と冬やそこらで出来やすかいなあ」「とても百姓にはヘエ……絵心がない事には、つまり困難だわさ」「まつたく、籠を編むとはわけが違ひやす……百姓が美術品を作らうツウだからナイ」「さあ……うまく練習生がごわせうかなあ?」その時は、村人には鼎の考える農民芸術というもののイメージが伝わらなかったようだが、十二月五日の開業には男子五名、女子五名の練習生が集まり、村のドロの木を使った木彫や刺繍の練習が始まる。
大正デモクラシーの時代、青鞜もすでに発刊/終刊していた時期だが、農村で若い男女が肩を寄せ合い学び合う機会などなかった時代、そして民芸を超えた創造の喜び、その新鮮な試みは若者の心を動かし、二月には、男子七名、女子一六名と、参加者は増えていった。

加藤一夫の民衆芸術論「民衆芸術の主張」

大正期に民衆芸術についてどのような議論が起こったかについて、よくわかるエッセイであるが、こんな風に真面目な議論のある新聞や雑誌は今あるのだろうか?

民衆芸術に関する考察

 民衆は何処に在りや
 民衆運動即自省更生
 民衆芸術の意義
 民衆芸術の主張