加藤一夫の民衆芸術論「民衆芸術の意義」

加藤一夫は民衆芸術論の後に農民文芸論を出している。加藤にとっての芸術とは「文芸」のことであった。直接的に感情の吐露を表現できる美術に比べ、言語による抽象化が必要で、その教育も不十分であった文芸は、民衆芸術としては敷居が高いかもしれない。民衆芸術としての文芸を、民衆自らがどのように創造していくのか、その糸口を見つけ出そうと苦悩している加藤の考察である。

民衆芸術運動(40)

金井正の地元、神川小学校で開催され、大成功を収めた児童自由画展は、各地の教育者の手によって、全国で開かれるようになる。各紙新聞社共同主催の「世界児童画展覧会」も開催され、『赤い鳥』をはじめとした児童雑誌でも児童画の応募連載が行われるようにもなった。山本鼎はその開催や講演会に協力して全国を飛び回っていた。
大正一〇(一九二一)年に行われた群馬県高崎公会堂での児童自由画展覧会と講演会の準備において問題が起きる。この展覧会を企画したのは、「高崎白衣大観音」の建立者として知られる、井上保三の長男、井上房一郎である。父に薦められ、大正七(一九一八)年、早稲田大学に入学した房一郎はその門をくぐることなく、東京美術学校の生徒だった白井壮太郎らと都会・文化生活を楽しんでいる。二年後早稲田を中退し、高崎に戻った後も、白井を通して購入した輸入レコードによるコンサートを高崎公会堂で開催したりしている。
その井上だが、大逆事件で無実の罪に問われ刑死した幸徳秋水が日本に紹介したクロポトキンの書物に対する当局の検閲が極めて厳しいことを知ってか知らずか、児童自由画展覧会と講演会の趣意書の中にクロポトキンの教育論の一節を引用していたのだ。発起人として名を連ねていた県の学務課長が趣意書を読み恐れをなして各県に出品自粛の文書を送った。前年九月の『改造』に伊藤野枝による「クロポトキンの教育論」が発表されているので、社会主義にも興味のあった井上は『改造』を読み、その教育論に感銘を受け趣意書に引用したのかも知れない。
山本鼎は『自由教育』四月号に「クロポトキンの祟り」と題して、その経緯を説明している。

 

二十日の早朝、僕は金井君を誘って、前橋へ出かけた。蓋し、此展覧会に就いて群馬県の学務課長から出品妨害の文書が各郡の視学に配られたという事が伝えられ、事実発起人等の熱心な努力も甲斐なく、郡部からの出品は、殆ど無いとも云える位であったので、僕は憤慨しちまって、学務課長に実情の質問をせねばならぬと、珍しく早起きしたのであった。学務課長はまだ寝て居たらしく随分長い間待たされた。――僕が来意を述べると、若い課長はこう弁疏した。
「あの事に就いては、東京の新聞に出たので驚いた――心配して高崎の方をしらべさしたら郡部の出品が殆ど無いという事なので心配した――実は最初高崎から二青年が見えて、自由画展覧会の企てを述べて自分に発起人となる事を望まれたので、自分も自由画展覧会の主意には賛成して発起人になったのであった。処が、各所へ配られた其の趣意書を見ると、主催者の一人が、クロポトキンの句を引用して居る。これを見て私は迷惑を感じた、なぜならば、御存じの事と思うが、凡そ若い教育者程過激思想に感染し易い者はないので、自分の地位としては、クロポトキンの句の記載されてあるような趣意書に発起人として名を列ねる事は出来ないのです――それ故「募集書中に気に入らない点があるから出品する場合には熟考する様に」という刷り物を郡視学に配布したわけであるが、決して自由画展覧会其のものを妨害したわけではありません」
まったくクロポトキンの句が祟ったのであった。それにしてもクロポトキンのようなむしろ人の良すぎる位な人の言葉が吾々の展覧会に障るのだからおかしい。

 

加藤一夫の民衆芸術論「民衆運動即自省更生」

加藤一夫の民衆芸術論、民衆芸術に関する考察の第二節「民衆運動即自省更生」をタイプした。キリスト教徒からアナキスト、そして天皇主義者へと変遷転向した加藤の心の動きが垣間見られる文章だった。

民衆芸術運動(39)

山本鼎はロシアで観た「児童創造美術展」に影響され「児童自由画展覧会」を開いたのだが、なぜ”創造“美術展ではなく、”自由“画美術展としたのかを、大正九年八月の『中央公論』「自由画教育の要点」の中で説明している。

自由画という言葉を選んだのは、不自由画の存在に対照しての事である。云うまでもなく不自由画とは、模写を成績とする画の事であって、臨本―扮本―師伝等によって個性的表現が塞がれてしまう其不自由さを救おうとして案ぜられたものである。
 創造(Creation)という字が一般に解り易いものならば勿論それが良い。露西亜では自由と云わずに、児童創造展覧会と云って居るそうだ。――併し、吾が従来の図画教育に対する時、自由画という字はむしろ適切ではないか。自由が不自由に代わった時、創造が模写に代わった時、はじめて自由という言葉は勇退すべきであろう。

「自由」という言葉は議論を呼んだようだ。いまだに「自由」に対して拒否反応を起こす人は多い。図画教師は自由を放任とみなし鼎を悩ませたし、「自由画教育の要点」掲載の翌月にはおなじく『中央公論』に「山本鼎氏の自由画教育提唱に対する図画教育者側の抗議」として、その時点での教育者の視点からの批判もあった。批判や問題は多々あったが、自由画教育運動は全国に広がり、図画講師が教育者として、また学校として自由画教育を取り入れていった。
児童自由画展覧会第一回展後に立ち上げた「日本児童自由画協会」は翌年、北原白秋らも参加し「日本自由画教育協会」に改名、白秋のわらべうた唱歌や『赤い鳥』の児童文学改革や、土田杏村、金井正、山越脩三らの上田自由大学設立に端を発した自由大学運動につながっていく。

自由画教育をいち早く取り入れた学校に大正自由教育の先鋒「成城小学校」があった。成城小学校では創作版画も授業の一環として行われ、昭和六(一九三一)年、成城小学校の美術教師であった内山嘉吉が上海で書店を営んでいた兄完吉を訪れ、兄夫婦等に版画を教えていた時に、たまたま立ち寄った魯迅の依頼で美術学生に創作版画を指導し、中国革命の一端を担う「木刻運動」にもつながっていった。

本間久雄の民衆芸術の意義及び価値

大杉栄が『新しき世界の為めの新しき芸術』の中で「本間久雄君は何事にも篤志なしかし無邪気な学者である。だから君は、エレン・ケイの「休養的教養論」を一読して、至極殊勝な篤志を起したものの、却って安成貞雄君に散々に遣っつけられたように、へまな民衆芸術論の説きかたをしたのである。」と批判した『民衆芸術の意義及び価値』を読んでみた。それは大衆(向け)芸術論であって、民衆芸術論ではなかったし、大衆芸術論としてもつまらないものだった。しかし、この論によって、「民衆芸術」やさらに「民衆」について議論されるきっかけとなったのだから、それはそれでよかったのかもしれない。現代のハリウッド映画やテレビ(ニュース・ドラマ・コマーシャル)、体験型・参加型アートに代表されるような大衆教化の芸能・芸術がどのような考えに基づいて作られているのかを知ることも出来るだろう。

民衆芸術の意義及び価値|本間久雄

民衆芸術運動(38)

大成功を収めた第一回日本版画協会展のひと月後、山本鼎が目をかけていた甥の村山槐多が、流行性感冒により二十二歳の若さで亡くなった。通夜には槐多や鼎の友人が集まり、石井柏亭の弟で彫刻家の石井鶴三がデスマスクをとった。鼎は『中央美術』四月号に槐多の追悼文を寄せている。
槐多の死を悲しむ間も無く、三月には美術雑誌『みずゑ』が版画特集を組むなど、鼎は時の人となる。前年の十二月十七日に神川小学校で『児童自由画の奨励』という講演を行い、児童自由画展に向けて準備を始めていた鼎たちは、三月十三日に印刷の上がってきた「児童自由画展趣意書」を昨年の講演の来場者や県内の小学校に送り、作品を募った。四月十五日には、集まった九千八百点の児童画から千八十五点を選び、神川小学校に展示した。四月二七、二八日の二日間、第一回児童自由画展覧会は開かれる。初日に行った講演には六百名もの観客がつめかけ、その盛況ぶりを信濃毎日新聞や読売新聞が特集記事にし、美術雑誌や教育誌にも記事が掲載され、「自由画教育」は運動として全国に広がっていく。

民衆芸術運動(37)

この頃、山本鼎は積極的に美術・文芸誌に美術展評を書いていた。大正七(一九一八)年一〇月号の『中央美術』に寄稿した二科展評では、望月桂と平民美術協会に関わっていた久板卯之助の肖像「H氏の肖像」や「冬の海」で二科賞を受賞した同郷の林倭衛の作品評をしている。
「林倭衛君の画は暗鬱な重くるしい画の多いなかに際だって、軽快に見えます。物体はただ弱く表現されて居るが、どれも躊躇なく統一された画面は多くの人に好かれるでしょう。」
長野県小県郡上田町に生まれた林倭衛は、小学生の時に事業の失敗で失踪した父の代わりに、小学校卒業後に家族の生計を立てるため上京し、道路人夫として働きながら、画家を目指すと同時にサンジカリスト研究会、平民新聞に出入りしていた。大正六(一九一六)年の第三回二科展でバクーニンの肖像画「サンジカリスト」が初入選、第四回展で「小笠原風景」が樗牛賞を受賞、第五回展では「H氏の肖像」「冬の海」で二科賞を受賞し、新進作家として評価を得るが、第六回展に出品した、大杉栄の肖像画「出獄の日のO氏」が警視庁に撤回命令を受ける。これまで美術作品の撤回、没収といえば裸体画など風俗紊乱に関することが多かったのだが、社会運動に関連して当局の弾圧の手が美術にまで及んできたことを、美術界や新聞なども問題視して報道している。

民衆芸術運動(36)

金井正らとの会合の後、東京に戻った山本鼎はアルス出版から刊行される『油絵の描き方』を執筆し、九月の院展では渡欧中に制作したものを中心に一七点の作品を特別展示として発表した。開催中に以前から縁談の話のあった北原白秋の妹いゑと入籍して、東京田端に新居を構え、版画協会創立の準備を始める。他にも生活費と渡欧で作った借金の返済のために版画の頒布会を開いたり、恩師の桜井虎吉が亡くなり経営に行き詰った「清和堂写真製版所」の建て直しなどに奔走している。
山本が渡欧後には『方寸』に影響を受けて、創作版画を志す若い美術家たちも増え、創作版画を志す若い美術家たちも増え、長谷川潔と永瀬義郎が、西条八十や日夏耿之介らの文芸同人誌『仮面』の表紙や口絵の版画を制作し評判になったり、大正三(一九一四)年には、恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄の版画誌『月映』も刊行されていた。大正五(一九一六)年には、版画運動を興そうと長谷川潔・永瀬義郎・広島新太郎が東京版画倶楽部を結成していた。
大正七(一九一八)年、山本鼎、寺崎武男、戸張狐雁、織田一磨を発起人として、東京版画倶楽部や月映同人を取り込む形で、日本創作版画協会を設立し、大正八(一九一九)年一月、日本橋三越で第一回展を開催する。目録に、山本は「版画の黄金期を促す事が吾々の急務である」と書き、寺崎武男は「今や世界は民衆美術の勃興を萌芽しつつある」と書いている。日本創作版画協会の発起人たちは、創作版画を民衆芸術としても捉えていたのだ。

民衆芸術運動(35)

金井正は山本鼎に出会う二カ月前、大正四(一九一五)年十一月に、西田幾多郎・田辺元のいわゆる京都学派の影響下に執筆した哲学書『霊肉調和と言う意義に就て』を自費出版し、哲学による社会主義的理想の実現を模索している。
その中で金井は、創造主とされる神は自らの創造の原理にあるとした。
後日、山本に聞かされたロシアの児童創造画展と日本での児童自由画展の計画に、金井は自らの哲学の実践の可能性を見出したのだろう。

 自らの中に創造の原理を蔵し、自らの力によって自らを分化限定して世界を構成する生命其物を措いて、何れの処にか神を求むべき、私共が神を知るとは、私共が自分の中に流るるこの生命の力を自覚することでなくて何であろう。自らの力を自覚することが自らを神化することではないか。道は近きにあり遠くに求むべからず。自己の神を捨てて空架なる異邦の神を求むるのは不信の至極であろう。
 私共が私共の神を自分達の中に見出す時、一切の欲求は満足と歓喜とに於いて諧調し、一切の霊的なるものは肉的なるものに即し、一切の肉的なるものは霊的なるものに反かない。自我と非我、精神と物質等の対立は渾然たる融和の中に各其の適然の姿を見出すであろう。而してすべての清きものと共にすべての醜きものを容れうる神の王国が地の上に建設せられるであろう。此王国を支配する神は清節を喜ぶと共に享楽を拒まない人間自らの神聖なる標徴でなければならぬ

民衆芸術運動(34)

シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断し、大正五(一九一六)年十二月二八日に神戸港に着いた山本鼎は、信州大屋の実家で正月を迎える。招かれた青年団の歓迎会で、後に民衆芸術運動を一緒に行うことになる金井正と知り合う。金井家は養蚕農業の他に郵便局や銀行を経営するなど、地元の有力者であった。三男の正は文学を志していたが、敬愛する次兄が早世したため進学をあきらめ、次兄の未亡人と結婚して家督を継ぎ、父の経営する自宅にある郵便局に勤める。日露戦争最中の、明治三八(一九〇五)年に『平民新聞』の定期購読を始め、知人を集めて読書会を開くなど、社会主義・反戦思想にも傾倒していた。明治四〇(一九〇七)年には、同人誌『国分寺の鐘韻』を出版、翌年には地元神川小学校に寄託し、「神川読書会」を設立して、農村の文化向上を志した。この頃、友人から薦められ、西田幾多郎の哲学を知る。