副業として農閑期を活用した一回目の農民美術練習所は大正九(一九二〇)年三月三一日に終業し、その成果を示すために、四月一一日、一二日の二日間、神川村で展覧会を行う。文部次官も来観し、村では各戸に国旗を掲げて歓迎している。
第一次世界大戦中から日本では大戦景気が続いていたが、三月の株価暴落を受け、戦後恐慌が始まる。銀行取付が続出するなか、金井正が苦労して集めた農民美術研究所の購入費百十円を山本鼎に送金するが、買おうとしていた家が既に売れていたことを理由に、その金を日本橋三越での展示即売会の会場費に充て、五月二八日から三日間開催した。前日の記者会見では、衆議院選挙で普通選挙派の議員の応援をしたために選挙違反の嫌疑をかけられ、東京に潜伏中だった金井も出席し、製作の過程を説明する。
即売会では千百五十三点の作品を陳列し、そのうち九百八十八点が売れ、三百六十点の予約を受けた。売上金は五百九十円にもなった。この成果に鼎は喜び、産業としての成立を確信するが、金井から送ってもらった百十円を会場費にあて、他にパンフレット印刷に二百円もかけるなど、全体としては赤字だった。こういった鼎の経営能力のなさは、後に金井との軋轢を生むことになる。
カテゴリー: 民衆芸術
民衆芸術運動(41)
山本鼎と金井正は自由画運動を行いつつ、農民美術運動にも着手した。大正八(一九一九)年一一月一八日、練習生募集のため、山本、金井の連名で書かれた「日本農民美術建業の趣意書」を村内に配布し、翌日には農閑期の間練習所として使わせてもらう神川小学校に青年会、婦人会の幹部にまってもらい、ロシアから持ち帰った農民美術品をならべ、工芸品と農民芸術の違いなど、農民美術の展望も含め趣旨説明を行った。
「これはハア、大ていなもんではごわせんぞ、あねいな立派なものが一と冬やそこらで出来やすかいなあ」「とても百姓にはヘエ……絵心がない事には、つまり困難だわさ」「まつたく、籠を編むとはわけが違ひやす……百姓が美術品を作らうツウだからナイ」「さあ……うまく練習生がごわせうかなあ?」その時は、村人には鼎の考える農民芸術というもののイメージが伝わらなかったようだが、十二月五日の開業には男子五名、女子五名の練習生が集まり、村のドロの木を使った木彫や刺繍の練習が始まる。
大正デモクラシーの時代、青鞜もすでに発刊/終刊していた時期だが、農村で若い男女が肩を寄せ合い学び合う機会などなかった時代、そして民芸を超えた創造の喜び、その新鮮な試みは若者の心を動かし、二月には、男子七名、女子一六名と、参加者は増えていった。
加藤一夫の民衆芸術論「民衆芸術の主張」
加藤一夫の民衆芸術論「民衆芸術の意義」
民衆芸術運動(40)
金井正の地元、神川小学校で開催され、大成功を収めた児童自由画展は、各地の教育者の手によって、全国で開かれるようになる。各紙新聞社共同主催の「世界児童画展覧会」も開催され、『赤い鳥』をはじめとした児童雑誌でも児童画の応募連載が行われるようにもなった。山本鼎はその開催や講演会に協力して全国を飛び回っていた。
大正一〇(一九二一)年に行われた群馬県高崎公会堂での児童自由画展覧会と講演会の準備において問題が起きる。この展覧会を企画したのは、「高崎白衣大観音」の建立者として知られる、井上保三の長男、井上房一郎である。父に薦められ、大正七(一九一八)年、早稲田大学に入学した房一郎はその門をくぐることなく、東京美術学校の生徒だった白井壮太郎らと都会・文化生活を楽しんでいる。二年後早稲田を中退し、高崎に戻った後も、白井を通して購入した輸入レコードによるコンサートを高崎公会堂で開催したりしている。
その井上だが、大逆事件で無実の罪に問われ刑死した幸徳秋水が日本に紹介したクロポトキンの書物に対する当局の検閲が極めて厳しいことを知ってか知らずか、児童自由画展覧会と講演会の趣意書の中にクロポトキンの教育論の一節を引用していたのだ。発起人として名を連ねていた県の学務課長が趣意書を読み恐れをなして各県に出品自粛の文書を送った。前年九月の『改造』に伊藤野枝による「クロポトキンの教育論」が発表されているので、社会主義にも興味のあった井上は『改造』を読み、その教育論に感銘を受け趣意書に引用したのかも知れない。
山本鼎は『自由教育』四月号に「クロポトキンの祟り」と題して、その経緯を説明している。
二十日の早朝、僕は金井君を誘って、前橋へ出かけた。蓋し、此展覧会に就いて群馬県の学務課長から出品妨害の文書が各郡の視学に配られたという事が伝えられ、事実発起人等の熱心な努力も甲斐なく、郡部からの出品は、殆ど無いとも云える位であったので、僕は憤慨しちまって、学務課長に実情の質問をせねばならぬと、珍しく早起きしたのであった。学務課長はまだ寝て居たらしく随分長い間待たされた。――僕が来意を述べると、若い課長はこう弁疏した。
「あの事に就いては、東京の新聞に出たので驚いた――心配して高崎の方をしらべさしたら郡部の出品が殆ど無いという事なので心配した――実は最初高崎から二青年が見えて、自由画展覧会の企てを述べて自分に発起人となる事を望まれたので、自分も自由画展覧会の主意には賛成して発起人になったのであった。処が、各所へ配られた其の趣意書を見ると、主催者の一人が、クロポトキンの句を引用して居る。これを見て私は迷惑を感じた、なぜならば、御存じの事と思うが、凡そ若い教育者程過激思想に感染し易い者はないので、自分の地位としては、クロポトキンの句の記載されてあるような趣意書に発起人として名を列ねる事は出来ないのです――それ故「募集書中に気に入らない点があるから出品する場合には熟考する様に」という刷り物を郡視学に配布したわけであるが、決して自由画展覧会其のものを妨害したわけではありません」
まったくクロポトキンの句が祟ったのであった。それにしてもクロポトキンのようなむしろ人の良すぎる位な人の言葉が吾々の展覧会に障るのだからおかしい。
加藤一夫の民衆芸術論「民衆運動即自省更生」
民衆芸術運動(39)
山本鼎はロシアで観た「児童創造美術展」に影響され「児童自由画展覧会」を開いたのだが、なぜ”創造“美術展ではなく、”自由“画美術展としたのかを、大正九年八月の『中央公論』「自由画教育の要点」の中で説明している。
自由画という言葉を選んだのは、不自由画の存在に対照しての事である。云うまでもなく不自由画とは、模写を成績とする画の事であって、臨本―扮本―師伝等によって個性的表現が塞がれてしまう其不自由さを救おうとして案ぜられたものである。
創造(Creation)という字が一般に解り易いものならば勿論それが良い。露西亜では自由と云わずに、児童創造展覧会と云って居るそうだ。――併し、吾が従来の図画教育に対する時、自由画という字はむしろ適切ではないか。自由が不自由に代わった時、創造が模写に代わった時、はじめて自由という言葉は勇退すべきであろう。
「自由」という言葉は議論を呼んだようだ。いまだに「自由」に対して拒否反応を起こす人は多い。図画教師は自由を放任とみなし鼎を悩ませたし、「自由画教育の要点」掲載の翌月にはおなじく『中央公論』に「山本鼎氏の自由画教育提唱に対する図画教育者側の抗議」として、その時点での教育者の視点からの批判もあった。批判や問題は多々あったが、自由画教育運動は全国に広がり、図画講師が教育者として、また学校として自由画教育を取り入れていった。
児童自由画展覧会第一回展後に立ち上げた「日本児童自由画協会」は翌年、北原白秋らも参加し「日本自由画教育協会」に改名、白秋のわらべうた唱歌や『赤い鳥』の児童文学改革や、土田杏村、金井正、山越脩三らの上田自由大学設立に端を発した自由大学運動につながっていく。
自由画教育をいち早く取り入れた学校に大正自由教育の先鋒「成城小学校」があった。成城小学校では創作版画も授業の一環として行われ、昭和六(一九三一)年、成城小学校の美術教師であった内山嘉吉が上海で書店を営んでいた兄完吉を訪れ、兄夫婦等に版画を教えていた時に、たまたま立ち寄った魯迅の依頼で美術学生に創作版画を指導し、中国革命の一端を担う「木刻運動」にもつながっていった。
本間久雄の民衆芸術の意義及び価値
大杉栄が『新しき世界の為めの新しき芸術』の中で「本間久雄君は何事にも篤志なしかし無邪気な学者である。だから君は、エレン・ケイの「休養的教養論」を一読して、至極殊勝な篤志を起したものの、却って安成貞雄君に散々に遣っつけられたように、へまな民衆芸術論の説きかたをしたのである。」と批判した『民衆芸術の意義及び価値』を読んでみた。それは大衆(向け)芸術論であって、民衆芸術論ではなかったし、大衆芸術論としてもつまらないものだった。しかし、この論によって、「民衆芸術」やさらに「民衆」について議論されるきっかけとなったのだから、それはそれでよかったのかもしれない。現代のハリウッド映画やテレビ(ニュース・ドラマ・コマーシャル)、体験型・参加型アートに代表されるような大衆教化の芸能・芸術がどのような考えに基づいて作られているのかを知ることも出来るだろう。
民衆芸術運動(38)
大成功を収めた第一回日本版画協会展のひと月後、山本鼎が目をかけていた甥の村山槐多が、流行性感冒により二十二歳の若さで亡くなった。通夜には槐多や鼎の友人が集まり、石井柏亭の弟で彫刻家の石井鶴三がデスマスクをとった。鼎は『中央美術』四月号に槐多の追悼文を寄せている。
槐多の死を悲しむ間も無く、三月には美術雑誌『みずゑ』が版画特集を組むなど、鼎は時の人となる。前年の十二月十七日に神川小学校で『児童自由画の奨励』という講演を行い、児童自由画展に向けて準備を始めていた鼎たちは、三月十三日に印刷の上がってきた「児童自由画展趣意書」を昨年の講演の来場者や県内の小学校に送り、作品を募った。四月十五日には、集まった九千八百点の児童画から千八十五点を選び、神川小学校に展示した。四月二七、二八日の二日間、第一回児童自由画展覧会は開かれる。初日に行った講演には六百名もの観客がつめかけ、その盛況ぶりを信濃毎日新聞や読売新聞が特集記事にし、美術雑誌や教育誌にも記事が掲載され、「自由画教育」は運動として全国に広がっていく。
民衆芸術運動(37)
この頃、山本鼎は積極的に美術・文芸誌に美術展評を書いていた。大正七(一九一八)年一〇月号の『中央美術』に寄稿した二科展評では、望月桂と平民美術協会に関わっていた久板卯之助の肖像「H氏の肖像」や「冬の海」で二科賞を受賞した同郷の林倭衛の作品評をしている。
「林倭衛君の画は暗鬱な重くるしい画の多いなかに際だって、軽快に見えます。物体はただ弱く表現されて居るが、どれも躊躇なく統一された画面は多くの人に好かれるでしょう。」
長野県小県郡上田町に生まれた林倭衛は、小学生の時に事業の失敗で失踪した父の代わりに、小学校卒業後に家族の生計を立てるため上京し、道路人夫として働きながら、画家を目指すと同時にサンジカリスト研究会、平民新聞に出入りしていた。大正六(一九一六)年の第三回二科展でバクーニンの肖像画「サンジカリスト」が初入選、第四回展で「小笠原風景」が樗牛賞を受賞、第五回展では「H氏の肖像」「冬の海」で二科賞を受賞し、新進作家として評価を得るが、第六回展に出品した、大杉栄の肖像画「出獄の日のO氏」が警視庁に撤回命令を受ける。これまで美術作品の撤回、没収といえば裸体画など風俗紊乱に関することが多かったのだが、社会運動に関連して当局の弾圧の手が美術にまで及んできたことを、美術界や新聞なども問題視して報道している。