民衆芸術運動(38)

大成功を収めた第一回日本版画協会展のひと月後、山本鼎が目をかけていた甥の村山槐多が、流行性感冒により二十二歳の若さで亡くなった。通夜には槐多や鼎の友人が集まり、石井柏亭の弟で彫刻家の石井鶴三がデスマスクをとった。鼎は『中央美術』四月号に槐多の追悼文を寄せている。
槐多の死を悲しむ間も無く、三月には美術雑誌『みずゑ』が版画特集を組むなど、鼎は時の人となる。前年の十二月十七日に神川小学校で『児童自由画の奨励』という講演を行い、児童自由画展に向けて準備を始めていた鼎たちは、三月十三日に印刷の上がってきた「児童自由画展趣意書」を昨年の講演の来場者や県内の小学校に送り、作品を募った。四月十五日には、集まった九千八百点の児童画から千八十五点を選び、神川小学校に展示した。四月二七、二八日の二日間、第一回児童自由画展覧会は開かれる。初日に行った講演には六百名もの観客がつめかけ、その盛況ぶりを信濃毎日新聞や読売新聞が特集記事にし、美術雑誌や教育誌にも記事が掲載され、「自由画教育」は運動として全国に広がっていく。

民衆芸術運動(37)

この頃、山本鼎は積極的に美術・文芸誌に美術展評を書いていた。大正七(一九一八)年一〇月号の『中央美術』に寄稿した二科展評では、望月桂と平民美術協会に関わっていた久板卯之助の肖像「H氏の肖像」や「冬の海」で二科賞を受賞した同郷の林倭衛の作品評をしている。
「林倭衛君の画は暗鬱な重くるしい画の多いなかに際だって、軽快に見えます。物体はただ弱く表現されて居るが、どれも躊躇なく統一された画面は多くの人に好かれるでしょう。」
長野県小県郡上田町に生まれた林倭衛は、小学生の時に事業の失敗で失踪した父の代わりに、小学校卒業後に家族の生計を立てるため上京し、道路人夫として働きながら、画家を目指すと同時にサンジカリスト研究会、平民新聞に出入りしていた。大正六(一九一六)年の第三回二科展でバクーニンの肖像画「サンジカリスト」が初入選、第四回展で「小笠原風景」が樗牛賞を受賞、第五回展では「H氏の肖像」「冬の海」で二科賞を受賞し、新進作家として評価を得るが、第六回展に出品した、大杉栄の肖像画「出獄の日のO氏」が警視庁に撤回命令を受ける。これまで美術作品の撤回、没収といえば裸体画など風俗紊乱に関することが多かったのだが、社会運動に関連して当局の弾圧の手が美術にまで及んできたことを、美術界や新聞なども問題視して報道している。

民衆芸術運動(36)

金井正らとの会合の後、東京に戻った山本鼎はアルス出版から刊行される『油絵の描き方』を執筆し、九月の院展では渡欧中に制作したものを中心に一七点の作品を特別展示として発表した。開催中に以前から縁談の話のあった北原白秋の妹いゑと入籍して、東京田端に新居を構え、版画協会創立の準備を始める。他にも生活費と渡欧で作った借金の返済のために版画の頒布会を開いたり、恩師の桜井虎吉が亡くなり経営に行き詰った「清和堂写真製版所」の建て直しなどに奔走している。
山本が渡欧後には『方寸』に影響を受けて、創作版画を志す若い美術家たちも増え、創作版画を志す若い美術家たちも増え、長谷川潔と永瀬義郎が、西条八十や日夏耿之介らの文芸同人誌『仮面』の表紙や口絵の版画を制作し評判になったり、大正三(一九一四)年には、恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄の版画誌『月映』も刊行されていた。大正五(一九一六)年には、版画運動を興そうと長谷川潔・永瀬義郎・広島新太郎が東京版画倶楽部を結成していた。
大正七(一九一八)年、山本鼎、寺崎武男、戸張狐雁、織田一磨を発起人として、東京版画倶楽部や月映同人を取り込む形で、日本創作版画協会を設立し、大正八(一九一九)年一月、日本橋三越で第一回展を開催する。目録に、山本は「版画の黄金期を促す事が吾々の急務である」と書き、寺崎武男は「今や世界は民衆美術の勃興を萌芽しつつある」と書いている。日本創作版画協会の発起人たちは、創作版画を民衆芸術としても捉えていたのだ。

民衆芸術運動(35)

金井正は山本鼎に出会う二カ月前、大正四(一九一五)年十一月に、西田幾多郎・田辺元のいわゆる京都学派の影響下に執筆した哲学書『霊肉調和と言う意義に就て』を自費出版し、哲学による社会主義的理想の実現を模索している。
その中で金井は、創造主とされる神は自らの創造の原理にあるとした。
後日、山本に聞かされたロシアの児童創造画展と日本での児童自由画展の計画に、金井は自らの哲学の実践の可能性を見出したのだろう。

 自らの中に創造の原理を蔵し、自らの力によって自らを分化限定して世界を構成する生命其物を措いて、何れの処にか神を求むべき、私共が神を知るとは、私共が自分の中に流るるこの生命の力を自覚することでなくて何であろう。自らの力を自覚することが自らを神化することではないか。道は近きにあり遠くに求むべからず。自己の神を捨てて空架なる異邦の神を求むるのは不信の至極であろう。
 私共が私共の神を自分達の中に見出す時、一切の欲求は満足と歓喜とに於いて諧調し、一切の霊的なるものは肉的なるものに即し、一切の肉的なるものは霊的なるものに反かない。自我と非我、精神と物質等の対立は渾然たる融和の中に各其の適然の姿を見出すであろう。而してすべての清きものと共にすべての醜きものを容れうる神の王国が地の上に建設せられるであろう。此王国を支配する神は清節を喜ぶと共に享楽を拒まない人間自らの神聖なる標徴でなければならぬ

民衆芸術運動(34)

シベリア鉄道でユーラシア大陸を横断し、大正五(一九一六)年十二月二八日に神戸港に着いた山本鼎は、信州大屋の実家で正月を迎える。招かれた青年団の歓迎会で、後に民衆芸術運動を一緒に行うことになる金井正と知り合う。金井家は養蚕農業の他に郵便局や銀行を経営するなど、地元の有力者であった。三男の正は文学を志していたが、敬愛する次兄が早世したため進学をあきらめ、次兄の未亡人と結婚して家督を継ぎ、父の経営する自宅にある郵便局に勤める。日露戦争最中の、明治三八(一九〇五)年に『平民新聞』の定期購読を始め、知人を集めて読書会を開くなど、社会主義・反戦思想にも傾倒していた。明治四〇(一九〇七)年には、同人誌『国分寺の鐘韻』を出版、翌年には地元神川小学校に寄託し、「神川読書会」を設立して、農村の文化向上を志した。この頃、友人から薦められ、西田幾多郎の哲学を知る。

民衆芸術運動(33)

山本鼎がモスクワに着いた頃は、日露戦争の敗戦、続く第一次世界大戦の苦戦とツァーリ政府の失策による物不足とそれに伴う物価の高騰で、インテリゲンチャ、労働者、農民の不満は高まる一方だった。鼎は両親への手紙に物価の高さを嘆き「金持ちは買いためも出来るし、高い魚や鶏(鶏に禁制なし)も買えますが、貧乏人は困るでしょう。それで暴動が起らぬのは不思議です。」と書いている。ロシア革命が起こるのは、その数カ月後のことである。
帰国後は渡欧生活で得た技術と知識や経験に基づいて美術作家として生活を送ろうと、ロシアでも美術研究に余念のない鼎だったが、その将来設計を揺るがす芸術に出会う。

 北海を越え、スカンジナビアを縦断し、フィンランドを迂回して露都に入り、モスクワに着いたが、此都で、私は思いの外の道草を喰ってしまった。三日滞在するつもりが実に五ヶ月にのびてしまった。其間の見聞で、巴里では見られなかった。或いは気がつかなかったものが三つある。一つは農民音楽の試演、一つはクスタリヌイミュゼエ(即ち農民美術蒐集館)一つは児童創造展覧会(即ち私の所謂自由画展覧会)である。
 (中略)
 クスタリヌイミュゼエ、とは木工品陳列所の謂であるそうだ。つまりモスクワスカヤ県の農民美術販売所なのである。其処で販売して居る物は、私の覚えて居るだけでも、玩具文房具、小器具、風俗人形、紙細工、籠、織物、小家具、陶器等の多種目で、皆露西亜趣味のはっきりと現れたものであった。私は其処で、ミュゼエの美術上の支配者である何とやらコフという人と、片上伸君の引き合せで握手した。処が、前に述べたように、日本へかえって製作三昧な生活に駆け込ん考で居た私は、此人から別に委しい話を訊こうともせず、階下で素木人形の安いのをちっとばかり買い込んだだけでやがてモスクワをお暇してしまったのである。
 処が、此種子は西伯利亜横断の汽車の中で退屈に蒸されて芽を吹いた。そして日本の土に下されて、世の雨風に晒される事になり、私は、種子と土とに重い責任を感じる身となってしまった。

民衆芸術運動(32)

モスクワのメディチといわれた大富豪サッヴァ・マーモントフが、ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動の影響を受け、一八七〇年にモスクワ北部のアブラムツェボに別荘を購入し「美術家連盟」を設立、中世ロシア美術の復興を目指した。ロシアではキリスト教のイコンがほとんどの家に飾られていたり、イコンの大衆化であるルボークという版画が愛好されていた。民衆の生活の中に美術があったのだ。一八六一年の農奴解放令によってもたらされた農民所有地の負債化の問題などで、自由な農村共同体を目指す「ナロードニキ運動」が興り、その啓蒙のために、本になったルボークも多く出版されている。
ロシアにおける文芸復興と大衆芸術の興隆のなかで、創造美術教育や農民美術運動が盛んになった。日本の箱根細工の七福神を入れ子にした福禄寿から発想を得たとされる、ロシアの民芸品として有名なマトリョーシカが、一九〇〇年のパリ万博で受賞するなど、民衆芸術が評価を得ていく。政府の側からは農民の負債解消のため、社会主義側からは農民の自主自立の要として、政府、反政府双方から推奨されていく。

民衆芸術運動(31)

山本鼎滞欧中の大正三(一九一四)年には第一次世界大戦が勃発している。ドイツ軍によるパリ空爆などもあり、山本鼎は数か月間ロンドンに避難していたこともあった。それでもパリに戻り、エコール・ド・ボザールに通いながら美術の勉強に励んでいたが、終わりの見えない戦争と、借金の催促による父からの苦情で、帰国を余儀なくされた。大正五(一九一六)年六月三十日、帰国の途につく。ロンドン、スカンジナビア、ロシア経由で帰国中、その後の人生を左右する芸術に出会っている。ロンドンから船で訪れたスカンジナビアでは、ノルウェーの美術館で初めて見たムンクに、美術の革新の可能性を見出している。リアリズムを主張してきた鼎だが、ムンクの絵に自然や人の風景の写実を超えた感覚の、精神のリアリズムを発見し、その表現技法を研究している。後の自由画教育でクレヨンを推奨したのも、ムンクのリトグラフからの影響があるのだろう。

……僕は此処にムンクの画を初めて見たのです。ムンクは、クロード・モネ等の創造した、印象主義が分裂をはじめて、次の時代が始まる——其新運動に、スカンジナビアから呼応して居る最も代表的な人です。生来の病身はその画に特色を露しています。筆の曲線的なリズムは、物のフォルムに就いて、煙のように、又波にゆらぐ海藻のように、画布の外にまで動きなびいて居ます。そのミュージカルな律動は、深くムンクの胸底につながって居るものです。又トーンも特殊です。痩せた少女が裸で腰掛て居て、影を背面に投げて居る、其影が何となく不思議なんです。男が水に沿うて歩いて居る、そして雲が下界にむかって吐息をついて居る、其雲が男の頭の悩ましさを暗示して居るらしい。人が影か、影か人か、雲が人だか雲だか分からないような調子をもって居ます。彩も特殊です。彼の用いているトワル(画布)は概ね油を吸ってしまう奴です。そして絵具はうすくテレバンティンに溶かされ、とんと水彩画の調子に、全体の基調を作ってしまうのです。或部分は布でこすって、麻の肌目に絵の具をすり込んであります。其処へあとから行った淡いコバルトなどが花粉のようについて居ます。花模様のある黒い女の着物なども、墨で描いて一度拭いて居ます。(これはウイスラーが常用しているテクニック)艶を有たない、そして深いヴァリューは、板襖に古びた土佐画を連想させます。藍、緑、墨、そして烏瓜の赤、は其常用色です。二階の室に彼の版画を四十枚見ました。木目の荒い板に、太い丸鑿で彫って、墨で刷ったもの、薄墨刷りの骨板に没骨的に、緑と熟柿色をおしたもの。幻のように少女の顔の現れたポアントセーシュ(ドライポイント)、或はローフォルト(エッチング)との混用、旺んにグラトワールを用いたリトグラフ。僕は彼の版画の中では此リトグラフの効果を一番好きました。クライヨンの性質は彼の神経に適応しているのです。此版画の室に、桟橋の上で両手で頬をおさえて立った男の油絵がありました。紺色の素描に血紅色の夕焼雲が燃えて居ます。二五号ばかりの小さな画ですが、あれは正にムンクの代表作でしょう。
「帰路の美術上の所見」

民衆芸術運動(30)

 父親のつてなども頼って、なんとか旅費を捻出した鼎は、明治四五(一九一二)年、神戸港からフランスに向けて旅立つ。最初の寄港地門司で早速女を買った。上海、香港、ペナン、ポートサイドと船が寄港するたびに、酒を飲み、様々な国の女を買っている。失恋の痛手が大きいとはいえ、この精力的な行動は鼎ならではのものだろう。五三日間の旅を終え、八月二四日に目的地のパリに到着した。
 美術学校を探し入学するものの、旅程での散財のため、必要にかられて、版画工房を紹介してもらい木版の彫師の仕事をしたりと、学校に通う時間もあまりなかったが、船旅でのスケッチをもとに、友人に頼んだ日本での頒布会用の版画を制作したり、学校でエッチングを試したり、モデルを頼んで人物像を描いたり、時にはロンドン、イタリアにまで足を延ばし、スケッチや美術館巡りをしている。滞在中には歌人の与謝野鉄幹・晶子、小説家の島崎藤村、画家の児島虎次郎、小杉未醒、藤田嗣二、安井曾太郎、梅原龍三郎などとも交遊する。パリに来た友人や日本にいる知人に借金を重ねながらも、三年半の滞在生活を送った。

『クロポトキン芸術論』加藤一夫

むかし、加藤一夫という詩人、評論家がいた。明治20(1887)年に和歌山で生まれた彼は、田辺中学時代に新しく赴任してきた校長の排斥ストライキ運動を起こす。退学、和歌山中学への復学を経て、和歌山のキリスト教会に出入りし、洗礼を受ける。1908年、明治学院神学部予科に入学、卒業後宣教師となるがキリスト教への疑念が解けず教会での仕事をやめる。1914年鎌倉高等女子学校の教師となるが、社会主義的な指導をしているとされ、わずか4ヶ月で辞職に追い込まれた。その後、トルストイの『闇に輝く光』の翻訳を皮切りに、文筆家としての道を歩み始める。存在理由を自らの生命に拠り、自己の真実を生きようと、本然生活を目指す。1915年には月刊文芸誌『科学と文芸』を刊行し、文芸人として認知されていく。ロマン・ロランの翻訳もしていた加藤は民衆芸術の議論が盛り上がると、理論的主導者の一人として、社会運動にも関わっていくことになる。「自由人連盟」「社会主義同盟」の発起人となり、大杉栄らアナキストグループとも交流を持ち始め、『民衆芸術論』『農民芸術論』などアナキズム的な文化論を発表していく。関東大震災後の戒厳令下に巣鴨署に検束されるが、東京を離れることを条件に釈放され、富田砕花を頼り兵庫での生活を始める。尾行に監視される中、翻訳の仕事で生活費を稼ぎながら、個人誌『原始』を刊行する。大杉栄虐殺、復讐の失敗、アナ・ボル対立の激化。1925年に東京に戻った加藤はアナキストたちに歓迎される。死刑判決を受けた古田大二郎にも2度面会し、通夜にも出席している。個人誌『原始』は寄稿も受けるようになり、アナキズム系機関誌として「無産階級文芸誌」となった。衰退するアナキズムとソ連の独裁化に追従する社会主義の中に自らの真実を見失っていく加藤は一田舎であった神奈川の中山への転居をきっかけに農本主義に傾倒していく。新居は雑誌「民衆芸術」を刊行していた大石七分がデザインした豪邸とも呼べる西洋館だった。理想主義的なコミュニティを作ろうとする中で、加藤は一度は見失った宗教人としての自覚を取り戻していく。創立に関わった春秋社の成長に支えられた中山での田園生活だったが、春秋社の凋落により、金銭的な支えを失い、7年後にはすべてを失う。崇神天皇の「農は天下の大木なり」にも通じる「農本」主義は国家主義や天皇崇拝との親和性を持ち、加藤の農本主義への傾倒と宗教人としての自覚は、ついには天皇信仰に転向する。太平洋戦争後は『新農本主義』を掲げるも、次第に表舞台から消えていく。戦後の加藤の思想については未見なので、ここでは触れない。終戦時、長男哲太郎は新潟第五俘虜収容所の所長であり、戦犯にされることが確実であったため、地下生活を送るが、1948年に捕らえられ、米軍事裁判で絞首刑の宣告を受ける。加藤の奔走により再審され、最終的には禁錮30年に減刑された。哲太郎が服役中の1951年に加藤一夫は永眠する。哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」をもとに制作された、フランキー堺主演のテレビドラマ『私は貝になりたい』は大きな反響を呼んだ。

加藤一夫の転向や石川三四郎の「土民生活」との違いを考えることは、民衆芸術の復興を考えることに他ならないだろう。少しずつではあるが、このブログで、加藤一夫が書いた芸術論を紹介していこうと思っている。まずはその元になったであろう加藤一夫訳の『クロポトキン芸術論』から始めたいと思っている。