退廃芸術と表現の検閲

031_1930_theredlist10月5日に東京藝術大学北千住キャンパスで、現代美術政治芸術研究会主催のシンポジウム「表現の規制と自由 —— ろくでなし子逮捕事件、そして、身体表現のポリティクス」が行われます。「わいせつ電磁的記録媒体頒布罪」で逮捕された、ろくでなし子や、愛知県美術館で写真展示中に警察の指導によって性器部分を隠さざるをえなかった鷹野隆大などの事例を元に、公権力の表現活動への介入の問題について議論するようです。

ちょうど版画がらみでドイツ表現主義について調べていて、『ドイツ表現主義の世界』の中にナチスが開催した「大ドイツ展」と「退廃芸術展」についての記述がありました。この二つの相反する展覧会を同時開催し、さらに「退廃芸術展」を18禁にして会期を一月も長くするところにナチスのプロパガンダの巧みさを感じます。

おそらくは生まれて初めて美術展というものに足を運んだであろうそれらの多くの人々にとって、自分たちが生活に喘いでいるときに、多くの税金がかくも愚劣な絵や彫刻に支払われていたことは、大きな驚きであり、激しい怒りを引き起こさないではいられなかった。この点は、展覧会を企画したナチス宣伝省の思惑どおりであった。

「退廃芸術家」の烙印を押されると、美術学校の教職に就いていた者はその職を追われ、所属団体を除名され、さらには作品の発表、売却までが禁じられ、ついには作品の制作そのものまでが禁じられるにいたった。

一時期、ドイツ表現主義の芸術家集団《ブリュッケ》に参加したことのある、ナチ党員の老エミール・ノルデさえも「退廃芸術家」の烙印を押され、一切の制作、画材購入禁止の通達まで下されたとの事。日本でも特に敗戦前は言論・芸術に対して、弾圧が行われてきましたが、美術作品に関してどの程度まで介入があったのか知りたいところです。敗戦後、これまでの検閲は知る限りでは「天皇・貨幣・性器」にとどまっていると思うのですが、流れによっては自由な表現すべてが規制されることも、今後ありうるのです。今は緩流に見えて、いつでも引き返せるように思えますが。

謎の「バレン」

1108item-105小学生の美術の時間、版画の授業で必ず使う「バレン」。何の疑問もなく受け入れていたし、よくある韓国経由で入ってきた中国の文化だろうと思っていたが、どうやら違うらしい。バレンが一番信頼できる気がして、自作のものを愛用していますが、よく考えてみると、それほど長持ちしない竹皮を使ったりしなくても、いまや他にいくらでもやり方あるだろうという摺り。海外ではプレス機か、手摺りの場合はスプーンを使うのが主流のようです。

世の中にはバレンについて研究したりする奇特な研究者もいて、ネットでも公開されている。著者のヒルド麻美さんは「バレン」ドイツ語説を唱えていました。

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「バレン」という語は1400 年代,室町時代から日本に存在していたが,それは,木版や印刷とは関係なく,「たわし」が出現する1700 年代後期まで,バレン(バリン)の根から作った,物をこすってよごれを落とす一般的な道具の名称であったということ,一方『日葡辞書』『羅葡日辞書』が木版関連の用語を周到に収録しているにもかかわらず,摺り道具だけが記載されていないことから1600 年代までは日本には確立した摺り道具がなかったと考えられること,こすり洗いの道具である「バレン」が摺り道具に転用された例も記載されていないという事実,グーテンベルク式印刷機とともに日本に持ってこられた円形の “Ballen” が,1600 年代初期にキリシタン版の木版部分の摺りに使われていたと考えられること,そのようなキリシタン版の印刷は九州でのみならず京都でも行われたという事実,それに続く時代の延宝から正徳(1673 ~1715)にかけて,木版における諸技術が大発展をとげ,日本の円形の摺り道具が考案されたと考えられる時期的な前後関係,および“Ballen”という発音が日本人に聞き取りやすく,表記しやすく,借用しやすいという音声的理由から,日本の摺り道具「バレン」は,木版の上に置いた紙を上から摺る“Lederballen”ないしは版面にインクをつける道具“Ballen”という,グーテンベルク式印刷機とともに日本にもたらされた円形の印刷関係道具のドイツ語名称から,17 世紀後期から 18 世紀初頭に日本語に借用された語だと推測する。

先生の一人だった城所祥氏が参加していた「鑿の会」という木口木版グループのグループ展か何かに行った時、そのメンバーたちが熱く交わしていたバレン談義が懐かしい。城所祥氏の作品は好きだったし、小さな木口木版を1点持っているのですが、その後若くして(53歳、自分と今の歳と変わらない)亡くなったことを今ネットで知る。ご冥福をお祈りします。

未来に影を落とす芸術運動

figaro現代アートに影を落とし続けている芸術運動がある。「未来派」だ。戦時中の翼賛芸術などは、いくらでも、権力に責任を押し付けられるのだが、「未来派」は、自ら望んで男根的な戦争をファシズムを創造の源とした。そして其処が現代アートの発火点なのだ。

……事実、僕達全部が、ウーウー唸ったり、パンパン射撃したり、パチパチやったりすることを望んでいるわけではないのだ、マリネッティ。……

未来派言語技術――F・T・マリネッティへの公開状―― アルフレート・デーブリーン

《ブリュッケ》後日談「表現主義と戦争」

《ブリュッケ》は一九一三年に事実上解散し、翌年には第一次世界大戦が勃発します。

dixまだ見ぬ戦争は、破壊と新生、堕落の浄化、英雄的な自己犠牲などのポジティブイメージをもたらします。表現主義者は「近代科学=スペクトル」に依拠し客観的な観察に終始した印象主義からの脱却を求め、過去の民衆美術を参照しつつ、社会や生活における主観の表現を追求していきますが、あまり主観に頼りすぎると、未来派のようにファシズムとの親和性を持ってしまうことがあります。

表現主義者は反戦の傾向が強かったのですが、未来派の影響もあってか、この戦争には、社会の再生の期待を抱いていた者も少なくなかったようです。しかし、現実は世界大戦の勃発により「青騎士」のカンディンスキーは国外に追い出され、マッケ、マルクは戦死、マックス・ベックマンや《ブリュッケ》キルヒナーは精神を病んでしまい、ドイツの敗戦もあり、表現主義は大きな打撃を受けます。

戦後の表現主義者は痛烈な反戦や社会批判を訴えていきますが、ナチスが全権を掌握し、美術家を目指したこともあるヒトラーにより、それらの多くの作品/作家は「退廃」の烙印を押され、一九三七年に全国巡回し、皮切りのミュンヘンだけでも二百万人を超える観衆が押しかけた「退廃美術展」の開催により、表現主義者の多くが、制作や発表を禁じられたり、監視の対象となりました。ついにキルヒナーは絶望し自殺、他の表現主義者も国外退去や隠匿生活を余儀なくされています。

表現主義者の苦難を知り、芸術によっても、反ファシズム、反戦(そして反核)を訴えていく、そのような作品制作が、今求められているはずです。

芸術家集団《ブリュッケ》小史

アルフレート・ヘンツェン教授への手紙 エーリヒ・ヘッケル
表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

brücke……われわれは一九一三年のために小史の出版を企てました。それはわれわれの一人一人の絵の手刷りやリトグラフを含むはずであり(後者はキルヒナー制作)、それにキルヒナーが文章を書きました。この文章は、シュミット=ロットルフ、オットー・ミュラー、および私の目から見て、事実と、われわれの綱領的なものを拒否する態度に矛盾していました。そこでわれわれは小史を出版しないことを決めました。みんながそれぞれの版画と文の一部を持ちました。その後キルヒナーはスイスで四人の肖像画についている表紙を彫り、冊子を二、三部作りました。

Erich Heckel: BRIEF AN PROF. DR. ALFRED HENTZEN

一九〇五年に始まったアートコレクティブ《ブリュッケ》も、一九一一年にその活動の拠点を大都市ベルリンに移し、活躍の機会を得ると同時に、集団としてより、個人としての活動が多くなり、結成の翌年から賛助会員に配布していた「年次画帖」の一九一三年の号にキルヒナーが書いた「《ブリュッケ》小史」に対する意見の衝突によって、事実上解体することになります。

芸術家集団《ブリュッケ》小史(一九一三)エルンスト・ルードヴィッヒ・キルヒナー
表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

1902年画家ブライルとキルヒナーが知り合った。兄がキルヒナーの友人であったので、ヘッケルがそれに加わった。ヘッケルがケムニッツ以来の友人であるシュミット=ロットルフを連れてきた。これらの若者がキルヒナーのアトリエに集まっていっしょに制作をし、ここであらゆる造形芸術の基礎である裸体画を、天性の自由な姿において勉強するという可能性が生まれたのである。この基礎の素描からみんなに共通の感情が感情が生まれた。生活から創造への刺激を受け取り、その体験に従うという感情である。『世俗に抗して』という書物を読んで、ひとりひとりが自分の理念を、描いたり書いたりして、それぞれの個性を較べ合った。このようにして全く自然に、《ブリュッケ》という名をもつ一つの集団が生まれたのである。キルヒナーは南ドイツから木版画をもって帰ったが、それは彼がニュルンベルクの古い彫法に感動して再び取り上げたものであった。ヘッケルは再び木の人物像を彫み、その技法をキルヒナーが彩色木版画において発展させ、石や錫の鋳型のなかで凝結した形のリズムを求めた。シュミット=ロットルフは、最初のリトグラフを石で試みた。グループの最初の展覧会はドレスデンのそのアトリエで行われたが、全く認められなかった。しかしドレスデンの町は、風景の魅力と古い文化で多くの刺激を与えてくれた。この町で《ブリュッケ》は、クラーナハ、ベーヘムその他の中世のドイツの巨匠のなかに、美術史上の最初の拠点を見出したのである。ドレスデンでアミエの展覧会が行われた時、アミエも《ブリュッケ》の仲間に加えられた。彼に続いてノルデも加わった。彼の幻想的な作風が《ブリュッケ》に新しい特色を与え、われわれの展覧会を彼の興味深いエッチングの技法で多彩なものにしてくれた。一方彼もわれわれの木版の技法を知るようになった。彼の招きでシュミット=ロットルフがアルゼンの彼のところに行き、後にシュミット=ロットルフはダンガストに赴いた。北海のきびしい風光が、とくにシュミット=ロットルフの作品に、記念碑的印象主義をもたらした。その間キルヒナーは、ドレスデンで凝結した構図を発展させ、民族学博物館のネグロ彫刻や南洋の角材彫刻のなかに、自己の作品と共通するものを見出した。アカデミックの不毛から自由になろうとする努力が、ペヒシュタインを《ブリュッケ》に導いた。いっしょに仕事をするためにキルヒナーとペヒシュタインは、ゴルベローデに出掛けた。ドレスデンのリヒター画廊で、新しい仲間を加えた展覧会がひらかれた。この展覧会はドレスデンの若い芸術家に大きな感銘を与えた。ヘッケルとキルヒナーは、新しい絵画を空間と共鳴させようと試み、キルヒナーは彼の空間を壁画や蠟けつ染で飾り、ヘッケルもそれに協力した。一九〇七年ノルデが《ブリュッケ》から出ていった。ヘッケルとキルヒナーはモーリッツブルグ湖畔に行き、戸外で裸婦像の研究をした。シュミット=ロットルフはダンガストで、彼の色のリズムの完成に努力した。ヘッケルはイタリアに赴き、エトルスク美術の刺激をもち帰った。ペヒシュタインは装飾の依頼を受けてベルリンに行った。彼は新しい絵画を分離派展に出品しようと試みた。キルヒナーはドレスデンで、手刷りのリトグラフの技術を知った。一九〇九年に、教職についたブライルが《ブリュッケ》から出ていった。ペヒシュタインはダンガストのヘッケルのところに行き、同じ年二人は、湖畔で裸婦像を描くためにモーリッツブルグのキルヒナーのところにやってきた。一九一〇年ドイツの若い芸術家が古い《分離派》で拒否されたので、《新分離派》創設の呼声が起こった。《新分離派》におけるペヒシュタインの位置を応援するために、ヘッケル、キルヒナー、シュミット=ロットルフもその仲間に加わった。新分離派の最初の展覧会でかれらはミュラーと知り合った。彼のアトリエで、かれらが非常に高く評価していたクラーナハのヴィーナスを再び見た。生と作品との感覚的な調和が、ミュラーを《ブリュッケ》の当然の会員にした。彼はわれわれに泥絵具の魅力を教えた。《ブリュッケ》の努力を純粋に保持するために、《ブリュッケ》の仲間は新分離派を脱退し、ベルリンの分離派には単独で出品しないという約束をたがいに取り交わした、グルリットの美術館の同じ場所で引き続き《ブリュッケ》の展覧会が行われた。ペヒシュタインがグループの約束を破り分離派の会員になり除名された。《ゾンダーブント》が一二年《ブリュッケ》をケルンの展覧会に招待し、ヘッケルとキルヒナーは会場の一室に壁画を描いた。《ブリュッケ》の仲間の大部分は今ベルリンにいる。《ブリュッケ》はここでもその内的なつながりを堅持している。《キュービズム》や《未来派》などの今日の潮流に影響されることなく、現実の芸術の基盤である人間の文化のために闘っている。この努力こそ、美術界における今日の位置を《ブリュッケ》に与えたのである。

Ernst Ludwig Kirchner: CHRONIK K. G. BRUCKE 1913

運動の木版画とドイツ表現主義

190620世紀における東アジアの版画の興隆/復興は、魯迅による熱烈なケーテ・コルビッツの推奨を見てもわかるように、ドイツ版画の影響が強いようだ。メキシコの木版画や現在の東南アジアの政治的な木版画の表現は「エルンスト・ルートヴィッヒ・キルヒナー」のスタイルに似ていると思い、ドイツ表現主義について調べてみると、キルヒナーたちはドレスデンで《ブリュッケ》という素人アートコレクティブを作って共同生活しながら、制作活動を行なっていたとのこと。

ドレスデン、一九〇五年《ブリュッケ》の結成とその画家たち
――共同生活と芸術――

われらはみんな仕事仲間 ドレスデンのベルリン通りに、空いている靴屋の店を借り、そこを共同アトリエとして、画を描いたり議論を闘わしたりしている青年たちがいた。一九〇五年のことである。周知のようにこの年は、パリのサロン・ドートンヌにおいてマティスやブラマンクの絵が《フォーヴ》(野獣)と罵られた年であったが、不思議にもこの同じ年に、ドイツにおいて芸術家集団《ブリュッケ》が出発したのである。
これらの青年たちは、二一歳のシュミット=ロットルフ、二二歳のヘッケル、二五歳のブライルとキルヒナーという、ドレスデン工科大学で建築を学ぶ学生たちであった。かれらは自らを芸術家集団《ブリュッケ》と呼んだが、美術について専門的な訓練を受けたものはなく、これまで素描や水彩を熱心に描いてはいたが、油絵を描くことはまれで、その意味でいまだ専門的な画家といえるものではなく素人の集まりであった。後に詳しく触れられるが、ヘルヴァルト・ヴァルデンが率いる週刊誌《シュトゥルム》の運動、また政治・社会問題も論ずるペェムファート編集の《アクツィオーン》中心の運動、さらに、雑誌《青い騎士》による運動などの、ドイツ表現主義といわれる芸術運動は、絵については独学の、この若い素人によってはじめられたといえるのである。

表現主義の美術・音楽 ドイツ表現主義 1971 河出書房新社

中原中也「骨」と「近代詩Tシャツ」

昔、多分1995年の夏に作っていた「近代詩Tシャツ」。最近、木版Tシャツとかやっているので、押入れの奥のTシャツダンボールをひっくり返すと出てきた。以前、サンタモニカで撮った、そのTシャツを着た写真をツイートしたのを、「アナログラジオ素人の乱」キャスターの松本るきつらが覚えていて、欲しいというので確認すると、着古しているしちょっとシミも付いていた。きっとメルロースのタコスのソースだ。とりあえず洗濯したけど、こんなのホントに要るのだろうか?

写真

 中原中也

ホラホラ、これが僕の骨だ、
生きていた時の苦労にみちた
あのけがらわしい肉を破って、
しらじらと雨に洗われ、
ヌックと出た、骨の尖。

それは光沢もない、
ただいたずらにしらじらと、
雨を吸収する、
風に吹かれる、
幾分空を反映する。

生きていた時に、
これが食堂の雑踏の中に、
坐っていたこともある、
みつばのおしたしを食ったこともある、
と思えばなんとも可笑しい。

ホラホラ、これが僕の骨――
見ているのは僕? 可笑しなことだ。
霊魂はあとに残って、
また骨の処にやって来て、
見ているのかしら?

故郷の小川のへりに、
半ばは枯れた草に立って、
見ているのは、――僕?
恰度立札ほどの高さに、
骨はしらじらととんがっている。

8月6日月曜日『トマトの日』

8月6日はトマトのことで頭がいっぱいになる。小学生の時、図書館で一度きり読んだ話を毎年思い出す。本の題名も思い出せないけれども、下に引用する中泉西国民学校の話を、原爆の物語にした本だったことは忘れていない。

aug6

この日、今の磐田西小学校、その当時は中泉西国民学校といいましたが、家に帰って家族といた子どもたちが5人亡くなっています。
5月19日は西小にとっても大切な日なのです。
いずれも死にたくなかった、生きたかったにもかかわらず、戦争で理不尽にも命を絶たれてしまったのです。爆撃で死んだ妹が「赤いトマト」を井戸水に冷やしてあったそうです。兄弟で一緒に食べようと思っていたのでしょう。お兄さんは「赤いトマト」を手にすると今も涙が止まらないと言います。
戦争の傷跡は私たちの身近なところにあるのです。68年前に何があったのか、もっと知ろうとし、調べていきましょう。広島の原爆のことを知るには『はだしのゲン』があります。身近なことは地域の方や祖父母に聞きましょう。今も世界には戦争や暴力があります。
私たちの身の回りでもケンカやいじめの芽が絶えず出てきます。その時、どうしたらいいか、命を守るために何ができるかを考え、自分の命、友だちの命、家族の命を守る力をつけていきたいと思います。

西っ子 第8号:平和とは何だろう?命を守るとは?ツヨシさんの発表をもとに考える

似顔絵の腕が無い

 

photo1(1)地下大学で「米騒動から原発震災へ───2014年に大杉栄が降り立つ 栗原康『大杉栄伝 永遠のアナキズム』(夜光社)をめぐって」というイベントをするし、「シュトルム・ウント・ドランクッ」のロードショーが8月にあるし、岡田裕子さんの息子がpythonで遺伝的アリゴリズムを使ってエスペラントを作る仕組みをパイソン・カンファレンスでプレゼンするし、久保貞次郎研究所は「戦争、差別、暴力の一切無い社会、全ての人が芸術家である社会にむけて」頑張っているし、ここはひとつ大杉栄の木版でもと、スケッチしてみるも全然似ません。ちょっとくずれた男前というのはかなり難しい。というより、若い頃に2,3度やったテレビ放送のための法廷絵かき。連合赤軍の永田洋子もロス疑惑の三浦和義も全然似てなかったので、似顔絵の腕がでんで無かったということを思い出したわけです。