民衆芸術運動(22)


今、この趣意書を読むと、山本鼎の興した「農民美術運動」とは、大正デモクラシーの時代の中で、選挙権を得るとともに「国民」となることを望む民衆運動が盛り上がる中、小作農民を美術を通して、資本主義国家となった日本の国民としていく運動であったことが判るのだが、それは同時に農民の自主・自立を促す事にも繋がっている。次官が村にやってくるからと村中に国旗を掲げるような、農村部においてはいまだ封建制度から抜け出せていない、そのような時代であった。

民衆芸術運動(21)

一九一九年(大正八年)にドイツでヴァイマル共和国が成立した。四月にはマルクス主義者であったウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受けたヴァン・デ・ヴェルデの工芸学校を引き継ぐ形で、バウハウスが設立される。
同年、一一月一八日、信州神川村(現長野県上田市)で、創作版画運動や自由美術教育で奮闘していた画家「山本鼎」と地元の篤志家「金井正」の連名で作成された冊子『農民美術建業之趣意』が配布される。
日本における農民美術運動が狼煙を上げたのだ。

農民美術建業之趣意

農民美術、PEASANT ARTは何れの國にもあるが、是れを現に、組織的に國家の産業として奬勵して居るのは露西亞である。其製作品は廣く歐米に輸出せられて遂年其額を加へ、PEASANT ART IN RUSSIA の名は今まさに、美術的手工品及手工的玩具の市塲に首座を占めて居るのである。
農民美術とは、農民の手によって作られた美術工藝品の事であって、民族的若くは地方的な意匠、――素朴な細工――作品の堅牢、等が其特徴とせらるゝのである。
日本にも農民美術と稱す可きものが昔から、各地にあるにはあったが、其製作上の方針が頗る消極的で、何等の産業的組織も、美術的奨勵もなかったために、段々製作品の美的價値が低下して、終に機械力に壓倒されて衰亡してしまったものが多く、今日では、外國に對してPEASANT ART IN JAPAN と名づく可き何ものも無いのである。
而も吾が國は由來、美術工藝に就ては、アテネの大美術にも比肩す可き光榮ある成蹟を有して居り、本能も趣味も共に頗る美術工藝に適した民族なのである。
されば、此處に若し、或る國家的理想と、微細にして廣汎なる産業的組織とを以て、美術的手工品の製作を奨めたならば、必ず愉快なる成果を見るに違ひない。
私が露西亞の滞在に心をとめたのは其處である。
PEASANT ART IN RUSSIA に對比す可き、PEASANT ART IN JAPANを今日に興して、民族と時代との特色を工藝美術の上に現し、以て其名譽と利益とを國家に捧げんかな、と建業の志を固めたのも其處である。
建業の志は、同志の協賛によって、此處に具体的の方針を得、まづ、本年に事を創めて、明後年の末までには少くとも、男女約百名の農民美術家を作り、若干種の製作品を公表發賣するまでに進めやうといふ事に一決した。
それで、吾々は最初の志望者を募らむが爲に此趣意書を作った次第であるが、此處に一と通り、建業の目的と其方法を述べる事にする。
建業の目的は、汎く農民をして農務の餘暇を好む處の美術的手工に投ぜしめて、各種の手工品を穫、是れを販賣流布しつゝ、終に民族と時代とを代表するに足るPEASANT ART IN JAPAN を完成し、以て美術趣味と國力とに稗益せんとするのである。
吾々の製作品目は、木彫玩具――彫刻を施したる文房具――装飾せるくりもの――繍刺及染色したるテーブル掛け、クツサン、袋物用の布、――簡單なる陶器――椅子、テーブル、書棚等の小家具――壁紙等に及ぶのであるが、すべて必ず手細工に依って作られ、若し機械製品に對して經濟的の競爭をまぬがれ得ざるものとすれば、それは、農務の餘暇に作らるゝ事、産出面を充分擴げ得る事、及それに對する特別なる産業的組織によって、支持せらるゝであろうと考へる。さて、事業の方法が最も重要である。
吾々は是れを大体、露西亞のクッタリヌイミユゼエの形式に學むで、第一期の終りに(吾々は事業を大体三期に分けた)は秩序ある農民美術學校及、製作品の販賣部を設けやうと思って居る。即ち農民美術學校では製作上の意匠圖案(是れが此事業の最も重要なる部分で、私は、吾が民族の槫統を注意した意匠――形式美と地方色とを調和したる圖案に就て目下たえず研究して居る)を決定し、常に製作法を研究して是れを教授し、以て各地に供給すべき専門的の農民美術家を養成するのである。
製作をどういふ風に勸め集めるかといふ事はまだ決定して居ない。製作と販賣との關係に就いてもむろんはっきりした考へはない。それ等の事は、最初の販賣を試むるの日、即ち豫定する明後年の末までには自づから定まるであらう。前に事業を三期に分けたといったが、大体こうである。
第一期――玩具、文房具、箱、テーブル掛、クツサン、等の意匠、圖案、製作法を決定し、練習所を神川村に置き、志望者を教導して、若干の農民美術家を作り、其製作品を公表發賣し、更に漸次志望者を収容して産業面を小縣一郡に及ぼす事。
第二期は――更に陶器、染色物、等を加へて、神川村に農民美術學校を建設し、産業面を長野縣下に壙げる事。
第三期は――更に小家具、壁紙、等を加へて、産業面を全國に及ぼし、東京に農民美術學校及陳列販賣所を置く事。(販賣の方法は最初は依托販賣後には獨立した販賣所を設ける)
以上は、今日に於ける吾々の希望と、計劃とであるが、なほ私には農民美術に附帶する有意義なる社曾事業が考へられて居る。併し企望ばかり陳列してもしやうがない。勇氣と智慧とはすべて實行の路上に與へられねばならない。
どうぞ、吾々の趣意を了解せらるゝ諸君には直接と間接とにかゝわらず力を添へて戴き度い。私は勿論決して急がない、併し決して又憩まない。まづPEASANT ART IN JAPAN が立派に産業的組織の上に完成したな、と見た日に、はじめてゆっくりと睡るであらう。その睡こそ永遠に覺めなくてもかまわない。
では、別に示された方法によって、諸君が悦むで募りに應じられ、製作を練習し製作を提供せられん事を希望します。

(山本誌す)
大正 八年 十月
山本 鼎
金井 正

パトラッシュ、僕はもう疲れたよ

 一八七二年(明治五年)イギリスの作家ウィーダが一九世紀のベルギー北部のフランドル地方を舞台とした児童文学『フランダースの犬』を発表した。日本語版は明治四一(一九〇八)年一一月に日本基督教会の牧師の日高善一(柿軒)の翻訳で内外出版協会から出版されている。
 「芸術」という言葉と意識は明治以降に輸入され、その頃の日本人にとっての芸術とは『フランダースの犬』の主人公、ミルク運びの仕事をしながら画家を目指していたネロが憧れ、自らの死と引き換えにやっと見ることが出来た、ルーベンスの絵画「キリストの昇架」のような、生活から遠く離れた神や権力の象徴であっただろう。
 大正一四(一九二五)年に、同人誌『青空』一月創刊号に発表された梶井基次郎の『檸檬』は、京都丸善に置いてある、主人公が大好きだった「アングル」などの画集を積み上げ、爆弾に見立てたレモンを仕掛ける短編小説だ。明治には神聖なものであった芸術は、大正の終わりには破壊の対象となっている。その間には「民衆芸術運動」があったのだ。
 産業革命―資本主義が興ると同時に、人間は労働者となった。そのような時代にロマン・ロランは芸術を通して「民衆」を発見した。労働者が芸術を持つことで、民衆となる。ロマン・ロランの『民衆劇論』を大杉栄は『民衆芸術論』として翻訳・発表し、民衆による、民衆のための芸術が必要だと訴える。それぞれの人が、それぞれに沸き起こる感情を表現することこそが、自主・自立の礎であるとする望月桂の考えと同調し「黒耀会」が誕生した。死の芸術よりも、生の芸術を! 死の拡充よりも生の拡充を!
 しかし、ネロはつぶやく。「おおパトラッシュ、可哀想なパトラッシュ。ふたり一しょに死のう。世間の人は、もう僕たちには用がないのだ。ここで横になって死のう。僕たちはたったふたりっきりだ。」ここでも、芸術には民衆が欠けているのだ。

絵画への我が一考

絵画への我が一考
望月桂

無才、無能、無力の我が生涯を顧みて、「新しい事、珍しい事、良い事、為になる事」など考えた事もない無精者だが、ただ真美の追求を続けて八十余年を過ごしてしまった。その間反省と信念の繰返しで生きたまでであった。その一面に趣味として絵を描く事を嗜んだが、今それを思い起こして感慨深いものがある。
よく「私は絵はだめだ」と天から相手にしない人が多いが、それは、描こうとする試みと勇気が足りないので駄目なのだ。上手下手は別として描かないから描けないのだ。人、器用必ずしも良い絵が出来る訳ではない。世に言う吃の雄弁という事がある。人は誰れでも自分が一番大事であってみれば、自分でした事は、他人にして貰うより大切な筈だ。他人の手で掻ゆい処を掻いて貰っても思うように手が届かぬと同様だ。自分の自由の大切さを知ってこそ、他人の自由さも察しられる。近頃個性尊重、人間尊重の言を度々耳にするが、それはエゴではなく、先ず自分の自由の大事さを知ってこそ、初めて他人の自由の尊さも判るということだ。そして知るだけでなく、行って初めて知る意義をなすと、自らを励まして来た。
お釈迦様の唯我独尊を俗人は自分に都合よく狭義に解するが、それは人共に唯我独尊の意で、自ずから調和融和の美の世界を指すと、判る様な気がする。そこで醜悪に挑戦することは美挙だと思う。潤おいある人間純化、並びに社会浄化には欠かせない、詩情ある芸術を欲する。物質先行文化の社会に於いては特に精神的遅れが目立つ。されば趣味芸術に依る、人的運動の必要を痛感させられる。
それもまた例えば児童が勉強を嫌うと言うが、敢えて教えようと強いるからで、教えようとする前に、その事への面白みを持たせる事だ。人は個性才能に相違ありと言う。だがそれも先天性にのみ任せず、努力開拓が可能だ。絵はあらゆる事の基礎だ。全ての人に絵心を持って貰う運動は革新への一歩だと信ずる。自然と自由を愛する人の集まりに依って初めて平和な社会は出現すると信じる。

民衆芸術運動(20)

1945年、日本軍敗戦。太平洋戦争中に勤めていた高島屋工業青年学校の寮生を引き連れ、郷里明科に疎開していた望月は、寮生を帰京させ、自らは明科にとどまる。実家で農業、畜産を行いながら農民組合、農協の設立に奔走する。
1955年には、松本の松南高校に請われ、美術教師に就任、以後十余年にわたり美術教育に尽力する。
1975年に信州新町美術館で初めての個展を開く。同年12月13日望月桂永眠。
長年社会運動に携わりながらも、権力闘争に与することなく、美術を通して自主自立、相互扶助を求め自由に生きた、日本で唯一のアナキスト画家は、89年の生涯を閉じた。

民衆芸術運動(19)

無期懲役の判決を受けた和田久太郎は、1928年2月20日、収監されていた秋田刑務所で自殺する。和田の身元引受人になっていた望月桂は、近藤憲二と共に遺骸を引き取りに行き、火葬する。
獄中からの和田の願いを聞き入れ、逮捕された同志や社会主義者の救援に奔走していた望月であったが、和田の死後活動の一線から身を引き、和田の死をいち早く知らせてくれた、読売新聞記者の宮崎光男の紹介で、読売新聞社に入社し「犀川凡太郎」として約三年間紙面に風刺漫画を描くなど、生活の立て直しをはかる。美術学校時代の同級生の岡本一平、藤田嗣治らと1938年に漫画雑誌『バクショー』を創刊するが、翌年、軍部の指令により配紙を止められ、廃刊に追い込まれる。

民衆芸術運動(18)

陸軍憲兵隊に虐殺された、大杉栄たちの弔いとして、労働運動社の和田久太郎と村木源次郎はギロチン社の古田大次郎と共に、震災時の戒厳司令官だった軍事参謀官陸軍大将の福田雅太郎の暗殺を企てる。1924年9月1日に決行されるが、拳銃の一発目に空砲が入っていたため失敗。和田久太郎が逮捕される。望月桂も事件後すぐに関係を疑われ検束されるが、短い拘留の後、釈放された。
和田は逮捕されて間もない9月20日付けで、望月に手紙を送っている。

君の家庭の如き幸福な善良な人々には、とくに福子夫人の如き人には、あまり心配させるような事はするなよ。第一線には俺のような浮浪人が起つ、独身者に限る。君のような人は陣の背後にあって補助的事務をやってくれ、傷つき倒れる者の病院に成ってくれ。これまた大事業だ。最大必要事だ。

民衆芸術運動(17)

大杉栄らの遺体は家族に引き渡され、9月26日に火葬され労働運動社に祭られた。駒込署に勾留されたままだった望月に尾行が「大杉さんがやられました」と告げ口したのは、震災からひと月が過ぎた10月1日だった。10月5日には釈放されるが、震災の被害が収まらず、大杉の葬儀さえ後回しにしないとならない状況の中、家族を連れて長野明科の実家に身を寄せる。11月末には東京に戻り、第四次『労働運動』の刊行を手伝い、12月26日に行われた大杉栄の葬儀にも参列した。その前夜の通夜に、焼香客を装った三人組の右翼が突然拳銃を発砲しながら、大杉の遺骨を強奪する。逃げ遅れた下鳥繁造を和田久太郎が取り押さえたところへ望月も追いつき、怒りにまかせて下鳥の顔を下駄で踏みつけにする。告別式は遺骨不在の中、予定通り谷中斎場でとりおこなわれた。

民衆芸術運動(16)

1922年9月30日、大阪天王寺公会堂で労働組合の全国統一連合を結成すべく「日本労働組合連合」の創立大会が開かれるも、アナ・ボルの対立により決裂し、大会以降その対立は激しさを増していく。

1923年9月1日、関東大震災が発生する。戒厳令下において、軍隊、警察とその主導により組織された自警団による朝鮮人、社会主義者への襲撃、虐殺が横行し、望月桂の自宅にも憲兵に扇動された自警団が押し掛ける。警察が介入し、保護を理由に望月は駒込署に留置された。

1923年9月16日、震災後行方が不明だった大杉栄の弟勇一から手紙が届き、大杉栄と伊藤野枝は伴だって避難先である会社の同僚の家へ向かう。勇一は妻と妹、橘あやめの息子宗一と無事に避難していた。宗一を連れ、柏木の自宅に戻る道すがら、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦ら憲兵に連行され、大手町の憲兵隊司令部でまだ幼い宗一ともども虐殺される。