民衆芸術運動(15)

へちま時代からの民衆芸術運動の同志であった久板卯之助を失い、黒耀会に対する当局の圧力、アナルコサンジカリスト(自由連合派)とボルシェビスト(中央集権派)の対立の激化、望月桂は次第に民衆芸術運動、労働運動から距離を置くようになり、古田大次郎が創刊した『小作人』の発行を通して農民運動へと活動の場を移してゆく。望月は第一回黒耀会展の直後に日本紙器株式会社でストライキを起こし、勝利したのちに退職し、同人図案社を立ち上げていたのだが、貧乏暇なし、活動の時間と資金を確保しようと印税収入を目論んで、1922年11日、アルス出版から大杉栄と共著で『漫文漫画』を出版する。大杉栄が稿料の全てを使い果たしてしまったので、望月の懐には一銭も入らなかったが、これが望月の唯一の(漫)画集となった。

彼奴年来の主張とかいう『自主自治、相互扶助』に祟られて、明日食う米も無くなったので、一策を案じた結果、大杉栄を引っ張り出して『共著』と銘打って出したのが、今度の『漫文漫画集』なんだ。読者諸君も此の種が判ったらドシドシ買ってやってくれ
『労働者』1922年

望月桂の絵もまだまだです
大杉栄

これが僕の癖、しかもちょっと何かに困った時にやる癖だそうです。
が、僕の癖をつかまえるのなら、そんなつまらない癖でなく、もっともっと面白い、いい癖がある筈です。それは例の吃りから、金魚のように飛び出た大きな目をぱちくりぱちくりやりながら、やはり金魚のように口をぱくぱくとやって、そして唾ばかり飲みこんで何にも云えずに七転八倒しているところなんです。
それがつかまえられないで、こんなつまらないところしか描けないようじゃ、望月の絵もまだまだ駄目です。

『漫文漫画』

民衆芸術運動(14)

1922年1月21日、運動の資金に充てようと売れる絵を描くために、伊豆へスケッチに出かけた久板卯之助が天城山中で凍死する。

さらば久板君!
望月桂

凍死なんていかにも相応しい、
真黒な大空に銀の星の天蓋の下
静かに更けて行く天城山頂の雪の上、
有つたけ燃やし尽くした体は、
仰向いて安らかに、永い眠りに付いた、
彼の死は確に芸術だ!革命家の死だ。

第三回黒耀展と同じく、第四回黒耀会展も「民衆芸術展」として、1922年6月に上野の日本美術クラブで開催される。当局により、二日目に、中止、解散命令を受ける。新聞記事などの資料も残されておらず、実質一日のみのこの展覧会の詳細は不明だが、第三回展の出品者に加え、翌年に前衛美術団体「マヴォ」を結成する村山知義、柳瀬正夢らも新たに参加している。この第四回展をもって、黒耀会の活動も終わりを迎えるが、村山、柳瀬らは「マヴォ」結成直後に展覧会を開き、機関紙も発行している。黒耀会の目指した革命芸術運動は民衆芸術運動から前衛芸術運動へと形を変え、若い彼らに引き継がれたのではないだろうか。

民衆芸術運動(13)

1921年12月24日~27日に北甲賀町の駿台クラブで第三回黒耀会展とされる「民衆芸術展」か開催される。この展覧会は秋田雨雀が読売新聞紙上でソ連の飢餓救援を呼びかけた「日本の芸術家諸君!」に応答したものだった。その数日前に、堺利彦、大杉栄が企画した展覧会がソ連支援を謳ったために中止命令を受け、弁護士の布施辰治や望月桂が尽力して、再開催された。
この展覧会は第一回、第二回黒耀会展と同じくアンデパンダン形式で行われ、望月桂はじめ黒耀会会員も数多く出品したが、展覧会の目的はソ連飢餓救援のための即売会であり、秋田雨雀、有島武郎、高村光太郎、北原白秋、島崎藤村、小川未明など、当時の著名人が数多く出品したことが新聞等に大きく取り上げられるなど、黒耀会の理念からは大きな隔たりがあった。

民衆芸術論一節

民衆芸術論一節
大杉栄 訳

この頃 ⋯⋯⋯ 一九〇三 ⋯⋯⋯ パリに平民劇場を建てようという企てがある。すでにいろいろな特殊の利害や政治上の利害から、それを自分のものにしようとしているものがある。平民の出費の元に生きようとする寄生木どもは、容赦なく平民の親樹から截り取らなければならない。平民劇は流行の商品ではない。ディレッタント等の遊びではない。新しき社会のやむにやまれぬ表現である。その言葉である。その思想である。そしてまた、危険の際の自然の勢いとして、凋落しかかっている老衰した旧社会に対する、戦いの機関である。少しでも曖昧であってはならない。ただ題目のみが新しい、新しい旧劇、すなわち平民劇の名のもとに変化を求めんとする紳士劇を演ずることではない。平民から出た平民のための劇を起こすのだ。新しき世界のための新しき芸術を建設するのだ。
現に、平民劇の代表者と言われる人々の間に、まったく相反する二派がある、その一派は、今日あるがままの劇を、何劇でも構わず、平民に与えようとする。他の一派は、この新勢力たる平民から、芸術の新しい一様式すなわち新劇を造り出させようとする。一は劇を信じ、他は平民に望みを抱く。その間には何等の共通点もない。過去のための闘士と、将来のための闘士である。
国家がこのいずれの派に属するかは言うまでもない。国家はその性質の上から常にかこの味方である。国家は、その代表する生活様式に少しでも新しいものがあれば、それを妨止しまたそれを凝結させる。誰も自分の生活を固定させるものはない。しかるに国家の任務は、その触れるいっさいのものを化石させ、生きた理想を官僚的理想としてしまうことにある。現に、私がこの文章を書いて以来、時間はわれわれのこの不信任を証拠立てている。平民劇の企てについての国家の干渉は、その必然の結果として、いつもこの企てを変性させて圧しつぶしてしまっている。
一般には今日の文明を、そして特殊には今日の劇を善良なるのと信じている。私はそうは思わない。私はこの妄想を容赦なく攻撃するだろう。今日の選ばれた人々の大多数はこの妄想を抱いている。そしてこのことは、いわゆる選ばれた人々があまり頼むに足らないという、われわれが久しい以前から知っていることの証拠になるのだ。彼等はただ変化を与えようとして無駄骨を折る。もともと彼等は保守主義なのだ。過去の人間なのだ。彼等には新しい社会をも芸術をも創ることはできない。やがて彼等は消滅するのだ。
生は死と結びつくことはできない。しかるに過去の芸術は四分の三以上死んだものである。これはフランスの芸術にのみ特殊の事実ではない。一般の事実である。過去の芸術は生には何の役にも立たない。かえって往々生を害う恐れすらある。健全な生の必須条件は、生の新しくなるに従って、絶えず新しくなる芸術のできることである。(ロマン・ロラン)

『黒耀』表紙に掲載された、大杉栄訳 ロマン・ロラン「民衆芸術論」一節

俺達の文句

俺達の文句 望月桂

俺達のパンは奪われ着物は剥がれて、もう何を考える気力もなければ、首を括る元気さえなく虫の様に只動いているのだが、一体今迄俺達は、当てにもならぬものを鼻先へ釣り下げられて欺されて歩けばよし、一寸でも躊躇しようものなら直ぐに、イヤと云う程尻を打たれて歩くことを余儀なくされて来たのだ。是れが人間の一生なら実に犬猫の方が遥かにましだ。そうかと云って犬猫にはなれもせず、成りたくもない。そこには飽く迄人間としての生活を求めて止まない理想があるのだ。然し又どんな理想があったにしろ、徒らに棚から牡丹餅を夢みていたからとて埒が明かないことも、独りで幾ら力んだとてそう安価に得られもしない事は良く知っている。社会生活をしている俺達は、唯民衆と供に…と云う事が第一条件で、こんなくだらぬ社会に先ず見限りを付け、次に新社会を建設するのだが創造前に一つの大事なことのあるのを忘れてはならない。其処で俺達は最も単純な方法として人間の感情生活の主なる事を知っている。自己の事を自分で決行するに誰に遠慮がいろう。只欲する儘に仕度い事をなし、厭な事はやめるのだ。是れが俺達の偽らざる真に唯一の生き方だ。成程こう云い放しだけでは如何にも理智を蔑にする様に聞こえるかも知れんが人間生活に理智は不必要だと云うのではない只偶像崇拝的な乾からびた様な屁理屈に引回され追い回されて小さく成っていなければならぬ様な時には確かに邪魔である。理智は人間の感情生活のをよりよく自由に為さしめるために必要だ。永い歴史が教うる参考としての突っかい棒である。吾々人間行為を主観的に決定するもの矢張り感情であると思う。某一本倒すにしても只頭の中で理屈を言い合ったからって倒れはしない。それよりも先ず思うままに手を出すとぶっつかる事だ。俺達の賃銀値上、時間短縮は勿論、総ての権力の獲得は、只腹を膨らますためや、寒くなへだけ着るためや、雨の漏らぬ処、風の吹かぬ処で休むためのみではなく、物質的に十分な欲望を充たし、尚且つ精神の享楽をも恣に仕度と云う所謂自由を要求する生の力の表現である。絵でも、文でも、字でも、音楽でも、其の他全ての労働でも、俺達に不必要なことは止めて、必要なことのみ、他人手をまたず直接各自に於いて、意の儘に振舞ってこそ初めて社会的にも、個人的にも真に自由な芸術的生活が生まれよう。斯うなれば他人に強いることも寄りかかる事もなければ不平も起らぬ。天下は此の時初めて泰平だろう。

民衆芸術運動(12)

黒耀会第一回展覧会から七ヶ月、1920年11月23日から六日間、京橋区伝馬町の星製薬(SF作家星新一の実父が経営する、当時東洋一と言われた製薬会社)七階で、黒耀会主催第二回作品展覧会が開催される。第一回展覧会の成功で勢いに乗る黒耀会は展覧会目録を作成、

俺達は抑えられている。しかし俺達は人間として、よりよく生きようと努めている。そこに俺たちの苦しみがあり悩みがある。その苦悩こそ、俺達の光であり、生命の原則である即ち俺達はいつも感覚の中に生きている。夫故に俺達から生まれたる物は本当のものである。ブルジュアーから生まれたる物を、破壊する武器である。いや、現在破壊しつつある。先ず第一に、その火蓋を切ったのは実に我が、黒耀会である。聞け。新しい社会の為め新しい芸術を宣伝している黒耀会は人間運動の根本を創造している。

と宣言する。
会場には、77名、140点の作品が展示されるが、官憲の検閲も厳しくなり、30点余りの作品が撤回、あるいは題名変更の命令を受ける。その際の乱闘騒ぎにより、一名が拘束されている。撤回命令は文書による正式なものでなかったため、そのまま展示を続けるが、京橋警察によって強制撤去される。望月らは、警視庁に電話し盗難届を提出すると共に、弁護士の山崎今朝弥が訴訟を起こし、判決前に作品は返却された。

民衆芸術運動(11)

黒耀会第一回展覧会終了後、1920年6月に機関紙『黒耀』を創刊する。表紙には「革命芸術の運動」(芸術革命ではない)と謳われ、大杉栄が訳したロマンロラン『民衆芸術論』の一節を掲載する。望月桂は「黒耀会の経過」「俺達の文句」を執筆、他には、発行人となった長沢確三郎(青衣)や丹潔、宮崎安太郎、添田唖蝉坊、岡本八技、高尾平兵衛、日吉春夫らが文章を提供している。

黒耀会の経過

黒耀会の経過 望月桂

一般無産者階級の人達も近頃は大分目が覚めて、昨日の悪も今日の善と悟り、既に新機の方法で制作にとりかかっている。処が今までずっと手を替え品を替えて圧迫と誤魔化しとで馴らされ切って来たものだから、なかなかお互いにそうチョックラ一寸手でも洗うような訳には行かぬので、まだかなり矛盾は残されてあるのだ。その一つとしては芸術問題がある。労働者は余りは生活が荒み霊も体も疲れ果てたために、すぐ目の前にある自分にとっては唯一の最善なる芸術が、月の世界の物ででもあるかのように想像し、及ばぬ事と観念して納まり返って仕舞っている。甚だしきに至っては、自ら行いつつある芸術を芸術とは気は付かず、中風患者の小便のたれ流し程にも感じないのだ。それで商売人の誂えて呉れた化物をのみ芸術と心得ていたのだから、分業制度は安全に続く。芸術運動は労働運動の邪魔物になるなどと云う片手落ちした寝言も出る。こんな文句の出る間は、我々労働者も完全な人間には到底成り得ない。そしてその間は勿論資本家制度は万々歳だ。だが可笑しい事には幾ら金力万能でも権力万能でも不平があるそうだ。一寸不思議な様だが合理的だ。凡てが他人任せに仕様とする処に起こるのだ。風呂の加減だって三助任せじゃどんな目に合うか知れやしない。食い物の甘い辛いも自分の舌より他に信じられるものはない。色合いにしろ、音色にしろ、如何に他人が選択に努力して呉れたからって自分が嫌いならそれまでのことだ。何だって自主自治に優るものは無かろう。
生活即芸術だ……破壊は創作だ……こんな談が仲間で無秩序に繰り返されていたが遂に、労働運動の研究会や、経済革命の学術的研究の他に、持って生まれた性分から来る趣味に生きたい、せめてもの息抜きにという訳で、革命芸術の研究茶話会を開くことになり初声を挙げたのが丁度去年の九月五日の晩であった。最初の中は会合者もホンの四五名位であったが段々に増えるようになって、十二月五日には会の名前も出来、会則なども出来て基礎が固まった。今年の正月社会党……の新年会には新橋の平民クラブに、横浜の金港亭に黒耀会員一同大奮闘で荒畑寒村氏作の脚本「電工」の上演や舞台装飾に於いて民衆芸術の処女作として公表したのだが意外に好評だった、四月三、四両日には牛込築土八幡前同好会で第一回作品展覧会開催、出品書画百数十点、同志の健実なる努力に依り成績は予想以上で都下の各新聞は筆を揃えて此の新しい大胆な試みと成功を祝福されしは聊か流飲を下るに足る。続いて此処に展覧会と同一の主旨に依って期間雑誌として「黒耀」を発行する事になった。また近々音楽会の催しやその他にも色々と新しい計画に就いて十分な研究と準備をすすめている。

『黒耀』一号 一九二〇年六月

 

民衆芸術運動(10)

1920年4月2日、3日の二日間、牛込築土の骨董屋同好会に於いて、黒耀会第一回展覧会が開催される。出品者36名、83点(百数十点との報道もある)の作品が、多くは画鋲、テープで所狭しと並べられた。「現在の芸術を打破して自主的の芸術を樹とする(東京日日新聞)」。日本における「プロレタリア美術展」の始まりとして、各紙新聞などマスコミも「芸術の革命」「民衆芸術の実践」として、好意的に紹介している。
企画段階で、有島武郎など交えて出品作を審査する提案を行った大杉に対して、望月は無審査で行うことを主張し、黒耀会はアンデパンダン展として開催される。アンデパンダン展は、既成の判断基準で作品を選別することなく、制作も鑑賞も各人の自主性に任せることで、芸術表現の自立や革新を促すことに重点を置く、展覧会の方法である。
展覧会を見に来た労働運動の仲間の一部から「芸術運動なんか生ぬるい、そんなものが、俺たちの何になろう」との批判があった。黒耀会の丹潔は批判に対し「警察に暴れ込むのも会合を開くのも実際運動であろう。しかし物騒な絵や文字を民衆に見せるのも、実際運動だといえる。それらは○○の前提ではあるが」と答えている。

民衆芸術運動(9)

「革命芸術研究会(茶話会)」は月一回の会合を開き、民衆芸術について懇談した。1919年12月5日の例会で、新たな発展に向かって、正式名称と会則を定め、『黒耀会』が誕生する。わずか一月後の1920年1月には、社会党の新年会で荒畑寒村の脚本『電工』『十二の棺』を上演する。舞台装飾含め、民衆芸術の処女作としての発表であった。
前年の7月には、大逆事件による冤罪で処刑された大石誠之助の甥の大石七分が『民衆の芸術』を出版。1919年には日本創作版画協会の山本鼎が、信州神川で「農民美術練習場」を開講するなど、社会運動と共に、民衆芸術運動も盛り上がりを見せていた。

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