前橋映像祭三つ折りパンフレット

前橋映像祭事務局から、三つ折りパンフレット(タイムテーブル)用のデザインを木版で作れとの司令が下った。この映像祭ではドキュメンタリー、ドラ マ、ショートフィルムや実験映像など、多様な作品が上映される。デザインによってひとつの方向性を示してしまわないよう、文字だけでデザインする。自分の 傾向として、ダブルイメージ(見方によって二種類のイメージが見えるものではなく、二つのイメージを重ね合わせるコクトー的な)を使いたがるので、木版水 彩三色摺りで、「二〇一五」と「前橋映像祭」をストレートに重ねあわせたロゴ、タイムテーブルなどの詳細が入る部分に、光を放つレンズをモチーフに楕円を 散らした。

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三つ折りパンフレットは当日配布されると思いますので、ぜひ来場して手にとってください。前橋、案外東京から近いです。

◎第六回前橋映像祭 6月27日(土) – 6月28日(日)前橋弁天通り
https://www.facebook.com/events/834377299971214/

ブランクラス「名絵画探偵 亜目村ケン episode1」公演と演劇のことなど

A3BC: 反戦・反核・版画コレクティブ同志の河口遥さんが演劇の初舞台に立つということで、演劇ユニット Whales「名絵画探偵 亜目村ケン episode1」をブランクラスに観にいった。知り合いが舞台に立つというのはこちらもなかなか緊張するものだ。

ブランクラスの前身、Bゼミについては彦坂尚嘉さんたちからなんとなく話しは聞いていた。若い頃、現代アートは教育から離れたところ、反教育としてあるものだろうと考えていた自分には、美学校やBゼミについて違和感があったので、気にとめず関わらなかったが、時代は変わり、今や現代アートの教育は当たり前のものとなったようだ。当時、先駆的だったであろうBゼミは、ブランクラスというアーティストサロンともいえる場所に生まれ変わっている。

「名絵画探偵 亜目村ケン episode1」は、かわいらしい小品という感じで好感を持てた。脚本、演出、役者、装置、会場、そして観客すべてがかわいらしかった。
https://www.facebook.com/events/816806568389194/


昔付き合っていた女性が小劇団に所属していたこともあって、80年代はじめの頃は足しげく紀伊国屋ホールや博品館劇場、花園神社に通っていた。アングラ演劇がメジャー化されたり、演劇ムーブメントとして社会的な現象にまでなった時代だ。「つかこうへい事務所」「夢の遊眠社」「状況劇場」は公演があるたびに、徹夜で新宿紀伊國屋書店前の路上に並びチケットをとっていたのだが、「つかこうへい事務所」解散の頃から演劇に通うのはやめ、その後ぱたりと行かなくなってしまった。

それでも、最近(震災後)はごくたまにだが演劇を観る機会がある。
・2012年 アンファンテリブルプロデュース「愛のゆくえ(仮)」
知人のN君に手伝いを頼まれ上野ストアハウスにビデオを撮影しに2日間通った。
主演の前川麻子は、日活ロマンポルノの中でいちばんのお気に入りの「母娘監禁・牝」の主役でもあったので、喜んで手伝いに行く。
「母娘監禁・牝」は主題歌の荒井由美「ひこうき雲」とテトラポット、冷蔵庫に逃げ込んで泣くシーンが印象的な映画だ。
前川麻子が主催していた「品行方正児童会」の演劇をテレビでやっているのを見たことがあるが、見ている私は時間と場所を共有する観客ではないし、演劇には一回性というものが欠かせないものだと思った。とはいえ、アーカイブはあったほうがいい。「愛のゆくえ(仮)」 全公演の映像をYouTubeでみる事が出来るようです。
https://www.youtube.com/channel/UC-owQqMItx-SEqtL6UJUFFg
たしか10月31日と11月4日を撮影したと思う。

・2013年 福島県立相馬高校「今、伝えたいこと(仮)」
残念ながら再演はもう無いとのこと。記録DVDの上映会は行っているそうなので、機会があればぜひ観て下さい。
https://www.facebook.com/events/416118131796896/

演劇を見るといつも、夢の遊眠社の「怪盗乱魔」で大泣きしてしまったことを思い出す。自分も若かった。決して伊藤蘭に泣かされてはならない。

貨幣小説『親和力』

ずっと気がかりだったゲーテ『親和力』をやっと読む。古本の岩波文庫を手に入れたのは20年以上も前の話だ。ボードリヤールの翻訳などしている今村仁司の『貨幣とは何だろうか』によると「貨幣形式」の小説ということだが、ストーリー自体は恋愛とか結婚とか不倫とかプラトニックとか神話とか死とか犠牲とか救済とか、おまけに造園とかの貴族な話なので、小説をざっと読んだだけでは「貨幣」とのつながりを見出すことは難しい。制度にまつわる話ではあるのだが、その飛躍の中間にはベンヤミン『ゲーテ 親和力』があるのだろう。個人的にいわくつきの『親和力』だが、読み終えることができてよかった。ベンヤミンの『ゲーテ 親和力』を再読することにした。

贋金つくり

贋金つくり」に主人公は居ない。三つの家族の愛憎と波乱含みの交流が描かれる。それを描くのはジイドではなく「贋金つくり」の題名で小説を書こうとしている小説家だ。しかし小説の中で小説はほとんど書かれることはない。結びの言葉だけは分かっている《まだこれで終わったわけではない……》。
物語は制作日記の中で進行していく。そこでは「贋金」に関する事件も語られるが、決してメインの事件ではない。贋金もクリスタルガラスに金メッキを施したという奇妙なものだ。登場人物たちは、自然科学から宗教、政治、経済、芸術までありとあらゆることを語る。ある意見に対しては、その反対意見も語られる。
小説は祖父の拳銃でこめかみを打ち抜く少年の死によって結ばれる。そこに小説の中の小説の結びの言葉は無い。しかしジイドは小説の中の小説家と同じように「贋金つくりの日記」を記述し出版する。
『悪貨が良貨を駆逐する』というグレシャムの法則も記述されるが、すべてが贋金だとしたらどうだろう。贋金にも悪貨と良貨があるのだろうか?贋物と本物を区別するその根拠は何だろう。贋の親子、贋の夫婦、贋の恋人、贋の友人。贋の貨幣。物語は《まだこれで終わったわけではない……》。

ヤンキー主義の信仰告白

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神にある、雷が静電気であることを証明した「ベンジャミン・フランクリン」による『ヤンキー主義の信仰告白(フェルディナント・キュルンベンガー 命題)』これはもう高額紙幣一〇〇ドル札の肖像に使われるわけです。そしていまや増えすぎたお金をどうすることもできないで、国債の大量発行や無駄遣いさえ義務となっているわけですから、困ったものですが、貨幣経済の根源的思想がこういうものなので、仕方ないのかもしれません。

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 時間は貨幣だということを忘れてはいけない。一日の労働で一〇シリング儲けられるのに、外出したり、室内で怠けていて半日を過ごすとすれば、娯楽や懶惰のためにはたとえ六ペンスしか支払っていないとしても、それを勘定に入れるだけではいけない。ほんとうは、そのほかに五シリングの貨幣を支払っているか、むしろ捨てているのだ。
貨幣は信用だということを忘れてはいけない。だれかが、支払い期日が過ぎてからもその貨幣を私の手もとに残しておくとすれば、私はその貨幣の利息を、あるいはその期間中にそれでできるものを彼から与えられたことになる。もし大きい信用を十分に利用したとすれば、それは少なからぬ額に達するだろう。
貨幣は繁殖し子を生むものだということを忘れてはいけない。貨幣は貨幣を生むことができ、またその生まれた貨幣は一層多くの貨幣を生むことができ、さらに次々と同じことがおこなわれる。五シリングを運用すると六シリングとなり、さらにそれを運用すると七シリング三ペンスとなり、そのようにしてついには一〇〇ポンドにもなる。貨幣の額が多ければ多いほど、運用ごとに生まれる貨幣は多くなり、利益の増大はますます速くなっていく。一匹の親豚を殺せば、それから生まれてくる子豚を一〇〇〇代までも殺しつくすことになる。五シリングの貨幣を殺せば、それでもって生みえたはずの一切の貨幣――数十ポンドの貨幣を殺し(!)つくすことになるのだ。
支払いのよい者は他人の財布にも力を持つことができる――そういう諺があることを忘れてはいけない。約束の起源にちゃんと支払うのが評判になっている者は、友人がさしあたって必要としていない貨幣を何時でもみな借りることができる。
これは時にはたいへん役に立つ。勤勉と質素は別にしても、すべての取引で時間を守り法に違わぬことほど、青年が世の中で成功するために役立つものはない。それゆえ、借りた貨幣の支払いは約束の時間より一刻も遅れないようにしたまえ。でないと、友人は失望して、以降君の前では全く財布を開かぬようになるだろう。
信用に影響を及ぼすことは、どんなに些細なおこないでも注意しなければいけない。朝の五時か夜の八時に君の槌の音が債権者の耳に聞こえるようなら、彼はあと六ヶ月延ばしてくれるだろう。しかし、働いていなければならぬ時刻に、君を玉突き場で見かけたり、料理屋で君の声が聞こえたりすれば、翌日には返却してくれと、準備もととのわぬうちに全額を請求してくるだろう。
そればかりか、そのようなことは君が債務を忘れていない印となり、また、君が注意深いだけでなく正直な男であると人に見させ、君の信用は増すことになろう。
自分の手もとにあるものがみな自分の財産だと考え、そんなやりかたで生活しないよう気をつけなさい。信用を得ている人々が多くこの間違いをやる。そうならぬように、長きにわたって支出も収入も正確に記帳しておくのがよい。最初に骨折りを惜しまず小さなことまで書き記すようにすると、こういうよい結果が生まれるだろう。どんなに小さな支出でも積み重なれば巨額となることに気づくし、また何を節約できたか、将来は何を節約すべきかが分かるようになる。……
君の思慮深さと正直が人々に知られているとすれば、年々六ポンドの貨幣を一〇〇ポンドにも働かせることができるのだ。毎日一〇ペンス無駄遣いすれば一年では六ポンド無駄遣いすることになり、ちょうど一〇〇ポンドを借りるための代価となるのだ。自分の時間を毎日一〇ペンスの価値に当たるだけ(おそらく数分に過ぎぬだろう)無駄にすれば、一年には一〇〇ポンドも使える特権を無駄にしてしまったことになる。五シリングの価値にあたる時間を無駄遣いすれば五シリングを失い、五シリングを海に投げ捨てるのと少しも変わらない。五シリングを失えば、その五シリングだけではなくて、取引にまわして儲けることができたはずのその金額も全部失ってしまったことになる。――そうした額は、青年が年配となるまでには、そうとう大きいものになるだろう。

すでに目前に迫りつつある戦争を避けるために

「すでに目前に迫りつつある戦争を避けたい望みを口にするのもよい。だがその目的のためには、産業の延びなやみを合理的に解消するかたちで、或いはどうにも蓄積しようのないエネルギーを蕩尽する、非生産的事業のかたちで、過剰生産を転用することが必要である。」

ジョルジュ・バタイユ 『呪われた部分』

チェルノブイリ原発事故で放出された核エネルギーをソビエトはどのようにして、消尽したのかを考えると、自ら連邦国家を破壊する行為により、なし遂げたと言うことも出来るだろう。福島第一原発事故で放出された核エネルギーは、社会制度の境界を乗り越えカオスを出現させた。その過剰なエネルギーは未だに消尽されず、デモーニッシュな神話として現代社会に蘇り、ついに『戦争』が立ち上がる。「すでに目前に迫りつつある戦争」を避けるために、非生産的行為としての芸術による象徴の消費に可能性を見出すことも出来るのではないだろうか。

『お金よ、お金を描くのよ』とマリエルは答えた

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「アンディは『いくら』とたずねた。『五十ドル』がマリエルの答だった。アンディはまっすぐ机へ行って小切手を書いた。
『いいわ。じゃ、アンディ、あんたの一番好きなものは何なの、言ってよ』とマリエル。
『さあ、なんだい』とアンディ。
『お金よ、お金を描くのよ』とマリエルは答えた。素晴らしいアイディアだとアンディは思った。そしてその夜おそらくマリエルは、見なれているため誰も気にしないようなもの。『キャンベル・スープの缶なんか』を描いたら、とも(今度は無料で)おしえた。」 Tomkins: op. cit., P.46. f. 中村敬治 訳

風呂で本を読んではいけない

IMG_0072 貨幣についての作品制作・展示を行おうと考えている。「貨幣」について考え始めたきっかけは、言わずもがなマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だった。本棚の奥の方から引っ張りだしてみると、水に濡れたまま乾かした感じで、全てのページがシワシワになっている。思い起こせば以前、風呂に入りながら読んでいて、ついうとうとした時に、お湯に落としてずぶ濡れになったのだった。風呂で本を読んではいけない。あらゆるひとにとって示唆に富む一冊と言えるだろう。

「Genbutsu Over Dose」と『わたしたちのJR福知山線脱線事故ーー事故から10年展』

天才ハイスクール!!!!展覧会「Genbutsu Over Dose」のうずらの卵が気になったこともあり、高円寺に三日間通った後に、同じく美学校関係者の木村奈緒さんが企画した『わたしたちのJR福知山線脱線事故ーー事故から10年展』を駒込にある「KOMAGOME1-14cas」に観に行く。

「Genbutsu Over Dose」と『わたしたちのJR福知山線脱線事故ーー事故から10年展』は鏡像関係にある展示だと思う。「Genbutsu Over Dose」は「死=生」を媒介としたアートであり、『わたしたちのJR福知山線脱線事故ーー事故から10年展』はアートを媒介とした「生=死」である。美学校の同士である若者たちが、同時期に死を中心点として両極に広がる展示を行なっていることは、特筆に値するだろう。

「Genbutsu Over Dose」を観た人は『わたしたちのJR福知山線脱線事故ーー事故から10年展』にもぜひ出向いて欲しい。

『わたしたちのJR福知山線脱線事故ーー事故から10年展』
会期:2015年4月22日(水)ー 26日(日)(5日間)
会場:KOMAGOME1-14cas
時間:11:00 − 20:00
会期中無休・入場無料
主催:JR福知山線脱線事故から10年展実行委員会
http://fukuchiyama10years.tumblr.com/

ナオナカムラは永久に不滅です!

gob天才ハイスクール解散展『Genbutsu Over Dose』。そのカオスから生まれるエネルギーを感じながら、頭に浮かぶ言葉は「ノー・フューチャー」だ。解散展なのだから、そのイメージは正しいとも言える。作品は作家自身の業の深さを探ることによって、人間の闇に焦点をあて表現したものが多かったと思う。

この展覧会について語る言葉を持たないが、あえてこう言いたい。

「天才ハイスクールは引退いたしますが、我がナオナカムラは永久に不滅です!」

展覧会は2015年4月21日火曜日まで、必見です!

「ノー・フューチャー」。パンク文化はこう宣言した。それと同時に、ボローニャやローマの創造的な蜂起行動はこう宣言した。「未来なんてありゃしない」。ぼくたちは依然としてそこにいる。戦争によって、意識や生存に適した生への希望が破壊されているあいだは、ぼくたちは依然としてそこにいる。依然として、77年運動の敗北がぼくたちを置き去りにした、その地点にいるのだ。
「ノー・フューチャー」は、当時と同じように、もっとも先鋭的で、もっとも真実を語っている状況分析のままでありつづけている。
そして、絶望がもっとも人間的な情感のままでありつづけている。

NO FUTRE ノー・フューチャー ―イタリア・アウトノミア運動史
フランコ・ベラルティ(ビフォ) 2010年 洛北出版