民衆芸術運動(8)

1918年の夏に富山の主婦たちが米価の高騰を止めさせるため、魚津港に集まり実力行使で阻止したことをきっかけに、全国規模の民衆暴動が起こった。大杉栄は大阪でその暴動を目の当たりにする。大杉にとって、革命の可能性を肌で感じられるものだったに違いない。
米騒動の数ヶ月前、1918年5月に『労働青年』の当初の発行人であった渡辺政太郎が病死する。渡辺の自宅では、以前より労働問題の研究会が開かれ、望月桂も久板卯之助や大杉栄と共に参加していた。渡辺の死後、後に官憲のスパイになってしまう有吉三吉の自宅へ場所を変え、「北風会」と改名される。この会の中でも、米騒動についての会合「米騒動記念茶話会」が持たれている。労働者革命への機運が高まる中、1919年9月5日、望月は自宅で「革命芸術研究会」を開催する。久板卯之助、小生夢坊、林倭衛、添田唖蝉坊、長沢青衣、中里介山、宮崎安右衛門、宮地嘉六、丹潔、川口慶助といった社会運動の錚々たる若手や芸術家、印刷工労働者などが参加した。

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民衆芸術運動(7)

「へちま」閉店後、久板は以前からその必要性を感じていた、労働者街で労働者と共に生活することで運動を広げて行くために、売文社の和田久太郎と共に、日暮里の労働者街に移り住む。同時期に同じ考えから亀戸の貧民街の借家を借りた大杉栄に呼ばれ、伊藤野枝、生まれたばかりの魔子との五人で共同生活を始める。
一方、千駄木に引っ越した望月は会社勤務を続けながら、大杉栄の「文明批評」出版を手伝ったり、会社の労働組合で活動を行うなど、久板とは違った方法で運動を続けていた。

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前年から始まったロシア革命の進捗と共に、日本の労働運動の機運が高まっていた時代であった。

民衆芸術運動(6)

「へちま」において、望月に多くの社会主義者、無政府主義者を紹介したのは『労働青年』久板卯之助であった。

俺が久板君と知り合ったのは大正五年(一九一六)、神田猿楽町で簡易食堂「へちま」開店後間もなく夏場だから氷水屋をやっていたところへ、久板は宮崎安兵衛から聞いたと言って来た。それから本郷白山上の南天堂書舗の三角間の二階に仮住まいしていた渡辺政太郎、本郷菊富士ホテルに大杉栄・伊藤野枝、日比谷の売文社で堺枯川・山川均・高畠素之、更らに荒畑寒村、木下尚江、神近市子、宮島資夫等に次々と同導紹介して呉れた。
望月桂遺稿集(久板卯之助君の奇行)より

望月は久板を通して、社会主義、無政府主義を学び、後にアナキスト画家としても紹介される同志社神学校中退の久板は、望月から美術について多くを学んだ。「へちま」から生まれた『労働青年』『平民美術協会』であったが、1917年7月「へちま」閉店後、『労働青年』は1917年11月の第七号をもって終刊、望月は日本紙器株式会社に就職し『平民美術協会』の活動も停滞する。

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平民美術

平民美術  望月 桂

吾々人類は何辺に迄で向上せんとするか。最善最美なる幸福に迄でと答えん。然り、今日の文明を以て満足は出来ぬ。曰く矛盾多き社会、徹底せざる自己。此暗黒なる怪雲を一掃せざる間は到底、光風霽月の理想郷は求め得られぬのである。然らば先ず第一にその魔物に湧く根源を突き壊さねばならぬ。即ち根源とは、人間が真の権威を失して、外部的勢力に圧迫され、主従転倒せる処に在るので、今日の文明の最初の第一歩に遠く根ざせるものである。是れ人生の真の幸福を忘れ
■中心点をはずしたる枝葉の幸福に憧れたるの結果と云わなければならぬ。
斯くて遂に専門及び、分業起こりて人間は段々不具な者になってしまった。益々霊に肉に各人の力の間隔が甚だしくなるのみで、吾人の望む、衆と共に等しき理解のもとに楽しみ倶に強く健全に生き、而して大いに発達を遂げ様とするの日は遠ざかり行く。見よ文芸に筆をとる者は只その事より他の事は知らずに得意になって民衆の先頭に立ち、いい気になって居る。又労働者は只々手足を動かして居れば人間は生きて居られるものだ位に考えている。此不具者達は益々偏長を偉大なりと迷信して誤れる方向に走って競争が始まる実に危険‼目も当てられぬのだ。彼らの情けは
■真の人間生活には価値無きもの、有難迷惑なもの、骨折損のくたびれ儲けである。
又相互扶助は徒らに他人に依頼するという事に化して、お互いに寄生虫の感がある。折角調和と統一とによって完全に近からんとして、進化した人類は此処に再び分裂せんとするか。或いは聞く手段とか、方便とか、それも佳ならん、されど純なるものは純なるものによって成らざるべからず。不具者に依って純なる幸福を得
■健全なる社会が造られようとは信ぜらぬ、吾々真面目なる生活を望み
真の幸を欲するものは、他人を恨むまい、世を呪うまい、先ず自らが健全なる生活に這入り、他人に弘め、社会を造るに茬りと思う。されば衣食住の物質的に生きる道は手足を動かし、趣味及知識の霊妙に生きるには頭を働かすべしと断案を下すに躊躇せず。斯く言えば懐手して飯を食わんとする富者顎で指図して歌や絵を集めんとする貴族、他人の権威の為に筆を振るい、飯を得る為に節操を売る、卑弱なる芸術家、物質の奴隷となって鉄槌を振るい、車輪を廻して文字美術を解せぬ労働者、夫れぞれ分業及び専門を以て自ら任ずる者如何に為すべきかは、各人思いなかばに過ぎんと信ずる。爰に於いて文学、美術は文士、美術家にのみ委ねるべきものでなく健全なる生活には各人の必要なる芸術であるというも亦過言であるまい。所謂芸術家がその実生活より離れて変則に発育せる頭で想像を廻らし唯だ
■機械的に発達せる技巧を弄して如何に努力せばとて其は皮膚的のものに終わる
崇高壮大なる芸術はその実生活よりほとばしり出る、止むに止まれぬ力であると云わんも亦失言ではないかろう。茲に貴族的沈溺美術を瓦解せしめ尚お真人の平民的美術の必要を感ず。是れが宣言の所以で同時に普及を同志に謀るものである。最後にあらためて労働者諸君の為に一言を繰り返そう、『自覚とともに美術の研究は文学に劣らざらんことを』而して労働青年諸君の内から力強き点の芸術が生まれて新社会の生命とならんことを望む。(一九一七、二、)

『労働青年』 一九一七年 三月号

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民衆芸術運動(5)

神田で4ヶ月、谷中で10ヶ月ほど営業した簡易食堂「へちま」だったが、妻が過労で倒れることにより、望月は閉店の意を決める。一年あまりの営業であったが、安い飯、集える場所、そして印刷の技術を持つ芸術家の店主、「へちま」は当時の労働運動、社会主義運動にとって、格好の拠点となった。
1916年10月、へちまの常連で、キリスト・社会主義者の久板卯之助が一般の労働者に向けた機関紙「労働青年」を刊行する。発行所や印刷所がへちまや望月の家になることもあった。望月はこの冊子の中で、民衆美術論とその運動を展開して行く。1917年2月に執筆し、1917年3月の「労働青年」で発表した「平民芸術論」、その主張に基づき、すでに2月には「平民美術研究会」を、翌月には芸術運動の実践を行うべく「平民美術協会」を立ち上げ、「労働青年」にも告知広告を掲載する。

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「平民美術協会設立」

世に平民美術の神聖を自覚し必要を感ずる以上、一種の専門家たる美術屋の手の独占せしめし現今の美術を、一般民衆の手に帰して其光輝ある真正の実を挙ぐ可き要求が生じてくる。茲に同志相謀って平民美術協会を創立せし所以にして、その宣伝普及の為具体的実現に着手せるもの也、切に同志諸君の御協力あらん事を希う。
不取敢目下の事業の次第左のごとし。

美術研究所開設
研究員は職業年齢男女を不問、時日は毎週日曜日開催の事。会費は一回金十銭也
平民美術講演会
適当なる時季を選びて開催する。
平民美術展覧会
毎年十月、於東京開催
純美術品の分布
木炭画、油絵、彫刻其他希望に随い便宜を計る。売額金一円以上
応用美術の作成
意匠、図案、印刷、楽焼、美術人形

其他平民美術に関する問題は一切御相談に応ずべく候
東京市下谷区谷中坂町二一 平民美術協会 幹事 望月桂

民衆芸術運動(4)

望月桂は東京美術学校卒業後に郷里長野県の野沢中学校に請われ、1910年5月に美術教師として赴任する。教師の仕事は一年間のみと決めていた。
赴任直後に大逆(幸徳)事件が起こる。望月の故郷である長野県明科の明科製材所で宮下太吉が爆裂弾を製造していたことが発覚し、幸徳秋水ら12名の社会主義・無政府主義者が死刑判決を受ける。爆裂弾を発見した駐在巡査は望月の父親とも親しかった。数年後の社会主義者、無政府主義者との交流に、この事件が、どの程度影響していたのだろうか。
野沢中学を辞職した望月は、明科の実家に戻り浪人生活を送るが、一年を待たずして東京に向かう。絵を売りものにせず美術を活かせる職業を探していた望月は、印刷工として、印刷会社に丁稚入りする。印刷の技術を習得した望月は、翌年に石版画工として独立、その年のうちに「大円社印刷所」を設立し婚約者のふくと結婚するが、翌年には会社が倒産する。その頃、世話になっていた「たぬき」という一膳飯屋の影響で、神田に氷水屋「へちま」を開業する。その後、簡易食堂として谷中に移転。印刷業も再開する。

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腹がへつては どうにもならん
先づ食ひ給へ 飲みたまへ
腹がほんとに 出来たなら
そこでしつかり やりたまへ

民衆芸術運動(3)

大正5年、早稲田文学に本間久雄の「民衆芸術の意義及び価値」が発表される。ロマン・ロラン『民衆芸術論』、エレン・ケイ『更新的教養論』を参照しながら、民衆芸術を定義しようとした。民衆芸術とは「惨めさと醜さがあるばかりの民衆」を教化するものであり、高等文芸に対して、通俗文芸であると定義づけた。この民衆芸術の定義に関して、様々な反論が起こされる。中でも大杉栄は、『民衆芸術論』、『更新的教養論』を精読し、大正6年10月の早稲田文学に「新しき世界の為の新しき芸術」を発表して、本間の誤読を指摘するとともに、民衆芸術の再定義を行っている。大杉栄によると「民衆芸術の問題は民衆にとっても亦芸術にとっても、実に死ぬか生きるかの問題」であり、その条件は、①娯楽であること。②元気の源であること。③理知の為の光明であること。「歓喜と元気と理知と、これが民衆芸術の主なる条件である。其他の諸条件は自然と備わって来る。そしてお説法やお談義は、折角芸術を好きなものまで嫌いにさせてしまう。手段としても極めて拙劣非芸術のものである。」

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大杉栄は続ける「しかし、此の主として「民衆の為めの」芸術が民衆に享楽されるようになるには、又彼の本当に「民衆の」芸術が生れるようになるには、先ず其の「民衆」が必要である。」と。同じ問題意識をジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリが『千のプラトー』で述べている。

芸術家はこれほどまでに民衆を必要としたことはかつて一度もなかったのに、民衆が欠けているということをこの上なくはっきりと認識する。つまり民衆とはいちばん欠けているものなのである。通俗的な芸術家や民衆主義の芸術家が問題なのではない。<書物>は民衆を必要とすると断言するのはマラルメであり、文学は民衆にかかわることだというのはカフカである。そして民衆こそ最重要事項だ。しかし民衆は欠けていると述べるのはクレーなのである。

民衆芸術運動(2)

黒耀会の中心人物である望月桂は、1887年1月(1886年12月)長野県の明科町に生まれる。実家は旧庄屋で養蚕業を営む、当時としては裕福な家庭に育った。松本中学の卒業を目前にして、息子が医者になることを望む親に反対されていた美術を目指し、家出をして東京へ向かい、1906年(明治39年)東京美術学校洋画科に入学する。(この年に山本鼎が同校を卒業している。)
望月は美術を目指したものの、絵を売って生活しようとは考えなかった。その頃を回想した「独断独語」と題する文章が残されている。

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 私が美校へ入ったのは、一ぱしの画家になろうなどではなく、絵が好きだったので研究しようとしただけだ。在学中いろいろな問題にぶっ突かった。美とは何か、真実とは何か、生き甲斐とは、また美術の神聖さ、芸術と生活の一体化等に悩みは多かった。肉眼に訴える感覚表現と技術は一応取得した。
そして考えさせられた。表面美、内面美というか、肉眼に映り、心眼に触れると申すか、内部に潜むものを快。小細工などなしに純情感激そのままを叩きつける壮。それから止むに止まれぬものを現わせば、不必要なもので飾る要はない。
勿論芸術である以上、表現技法は大切だ。それに新旧はいらざる事、最適なものが佳、洋画、日本画にも固執する要はあるまい。流行は必ず廃る。流れに浮かぶ泡ぶくの如しだ。ただエゴ陶酔は気をつけるべきだ。常に衆と共に生きる世の中だから。
だが世の中へ出てみると、夢と現実は裏腹だった。近代文化は物質万能、肝心の精神生活は無視に等しく、万事は経済に支配され、人間はその奴隷たるため、道具たるための専門家たるを得なかったのであった。そうして各自自ずから争って自分を売り食いして居る。そして社会は、自己以外を理解できない不具者の寄せ集めであった。
美しい芸術即生活を目標とし、自然を愛し自由を尊重した、一青年は人生に失望したが、ここに一切の幸せは他に頼れない、自力創造以外にないと奮起した。人間個々は性格才能に相違は当然、各自は分に応じ、それぞれの筋を通し、万人理想の為めに行動を取るべきだ。芸術は万人享楽のために解放すべきものだ。
私は芸術の神聖を命を賭しても守る。生活のためにそれを売る事は芸術を冒涜すべきものだとし、制作以外の職を選び生活することにし、或いはテクニックだけを売る事にしたのだ。
そして政治と美術の関りについて一言。私の知る範囲では、凡そ政治は権力の下に、愚民をいい事にし、お為ごかしの巧妙な誤魔化し支配以外の何物でもない。更らに経済とつるんで人類を腐廃せしめ芸術をも歪曲退廃せしめる。これに対し芸術家たるもの何でそっぽを向いて居られよう。
硬骨露わに体当たりか、骨に肉と皮とで被いやんわり逆撫でして自覚を促すか、その手は幾らでもある、芸術は常に正義の味方であるべきだ。
そこで漫画が登場する。敵の攻撃から味方に勇気づけ、失った笑いを復活せしめる役割がある。これも説明ではなく、又下衆では拙い。美術の品位を保たねばならぬ。

民衆芸術運動(1)

ポップソングを「楽曲」といい、その歌い手を「アーティスト」と呼ぶまでに、芸術の大衆化は進んできた。大衆文化として栄えた漫画は、いまや日本文化の中心にある。しかし、わたしたちは本当に芸術を手にしたのだろうか。大正期に美術を中心に民衆芸術運動の実践を行った《農民美術練習所~日本農民美術研究所》の山本鼎、《平民美術協会~黒耀会》の望月桂、そして《羅須地人協会ー農民芸術概論綱要》の宮沢賢治について考察しながら、芸術の民衆化というものについて考えてみたいと思う。

黒耀会(望月桂)

大正8年の暮れに、黒耀会という民衆芸術のグループが立ち上がった。
立ち上げにあたり、宣言と会則を記した手書きのガリ版が印刷されている。

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民衆美術宣言

宣言
現代の社会に存在する藝術は、或る特殊の人々の専有物であり、又玩弄物の様な形式に依って一般に認められている。こんな芸術は何処にその存在を許しておく価値があろう。この様なものは遠慮なく打破して吾々自主的のものを獲えねばならぬ。これが此の会の生まれた動機である。
大正八年 十二月 五日
黒耀会
会則
一、本会は黒耀会と称す。
一、本会は自主的藝術革命を目的とする人々に依って組織す。
一、本会は研究会及実際運動をなす。(月一回研究会を開く 第一日曜午後六時より)
一、本会には一切の会務を処理するために会員互選の世話人を置く。
一、会費は1ヶ月金弐拾銭とす。
一、本会の事務所を当分の中左記の場所に置く。
一、東京本郷区千駄木町二一〇 望月桂 方