ラジオアリーチェとその時代(1)

イタリアの冬
1977年の冷たい朝
真空管あるいは最新型の
トランジスタラジオ
からエンツォ・デル・レの
Lavorare con lentezza
が流れてくる

ゆっくり働くんだ
なにひとつ頑張ること無く
急調子で働く連中は
自分を傷つけて
しまいには病院行き
でも病院のベッドは満杯
だから間もなく死んでしまうよ

ラジオアリーチェの
一日の放送が始まった

トリノでは労働者
たちが工場を占拠し
南部からやってきた
出稼ぎは仕事に行かず
自動車を盗み
生活費に換えジェノバ
では赤い旅団が有力者
を誘拐している共産党は
保守政党と手を結び
労働組合は若者を
監視しはじめた逮捕者は
「懺悔者のシステム」
で無実の活動家を
有罪にするローマでは
ファシストが大学に
押し入り学生の頭
を撃ち抜いた

ラジオアリーチェが
流れるボローニャでは
「共有と開放」
と名のるカトリック
聖職者団体の
集会で排除された
アウトノミアの若者が
警官の銃弾によって
死亡する3月11日
その死はすぐさま
ラジオアリーチェの放送で
ボローニャの活動家が
知る追悼はデモから
暴動へと発展した
3月11日

3月12日

警察

がラジオアリーチェ

を襲撃し

鉛の時代

は最盛期

を迎える

さようならネグリさん

negri今回アントニオ・ネグリ氏が来日した予定が、国際文化会館での講演、姜尚中氏との対談で終了した。
2008年に予定されていたイベントには、在野のボランティアとしてではあるが、木幡和枝さんの指導のもと、深くコミットしていた。
残念ながら来日は中止となったが、主催者側に居た人間として、なんらかの責任感を感じていたのだろう。その後も、G8対抗国際フォーラムのボランティア、毛利嘉孝さんと始めたフリーメディア・リサーチラボ、平井玄さんの地下大学原発やめろデモ!!!!!! 以降の素人の乱などで、マルチチュードのようなものであろうと努めてきた。マルチチュードであることを求めるとは、なんと不幸なことだろうと、今は思う。
とにかく、アントニオ・ネグリ氏は来日を果たし、二つの講演を関係者席で聴講した。そして僕は肩の荷を降ろした。

閑話休題

バブル後に顕著となったナショナリズムが、今回の衆院選での自民党圧勝、安倍政権発足、日本維新の会の大躍進をめぐって、さらに拡大しているように見え、巷では日本の戦前回帰が始まったとの噂も流れていますから、終わったものとしてしか捉えていなかった時代を再考してみようと、大杉栄あたりの資料を読んだりしています。

率直な感想として、戦前の日本はかなりの野蛮国家であったことは、誰の目にも明らかだろうと思います。視点を変えれば、おおらかな時代だったとも言えるのですが、多分、この時代に戻ることは、わたしたちのような在野の人々よりも、権力側の方々にとって、より敷居が高いことでしょう。

閑話休題

有島武郎はなぜかこれまで読んだことがなくて、戦前再考の過程で目にしましたが、「農民文化といふこと」これこそがフリー(自由/無料)ということだろうと思いました。しかし有島武郎が悩んだように、パブリックドメインのパラドックスをどう乗り越えるかが、やはり最大の課題となります。

著作権と自由の侵害

芸術はその発生から、現在に至るまで変わること無く、「自由の技術」でありつづけていますが、常に「反芸術」という状態も起こりますし、最近、特に状況は悪化しています。「反芸術」勢力が世の中に溢れてきているのです。

芸術が反芸術に堕落するその一番の原因は「(自然権として売り買いされる!)著作権」です。ワールドワイドウェブという自由の道具が現れ、その反動として、アートを囲い込み、利用して金儲けをする企業/団体による著作権の強化が行われています。これまで、芸術の創造者は「著作権」について、それがあまりに不当な金儲けに使われない限り、それほど気にしていませんでした。なぜなら、いくらでも新たに作品を制作することが出来るし、ひとつの作品を作り終えた後には、次の創造に向かうからです。作品に秘められた創造力が世界に広まったり、誰かの創造力を刺激するきっかけになれば、それで良いわけです。作品やその複製がたくさん売れて、必要以上の金儲けをすることなど、芸術にとってはどうでもいいような些細なことなのです。

「著作権」を非親告罪化しようとする反社会勢力/反芸術勢力が存在し、勢力を拡大しています。この自由の侵害に対して、「自由の技術」に関わる芸術家が立ち上がらなくてはいけません。それが出来なければ、自由と芸術は死に絶えてしまうでしょう。

自由を創造する技術

芸術とは一種の自由の科学である ─ヨーゼフ・ボイス

ヨーゼフ・ボイスが「芸術は自由の科学」と言っていますが、今ひとつ納得できない。マルクスの「貨幣は商品である」と同じぐらい違和感があります。

芸術と自由は決して切り離せない。切り離したとたんに双方が消滅してしまうものであることは周知の事実なのですが、、、。

では、「芸術は自由の」何なのか?「芸術」は「art」の翻訳と聞いています。アートの根源は「テクネ」やはり技術であって、芸術は『自由の技術』なのです。

自由の中には、元々はベストな状態へと向かう言葉であったはずの「良い加減」や「適当」という、今ではネガティブな感じを受けるものが含まれています。「欲望のまま」「我儘」という意味も含まれるでしょう。それらも否定することの出来ない人間の本性です。

全て受け入れ、自由の創造(解放)を行う技術が「芸術」というものなのです。

新自由主義という現在の困った状況も、ある意味アートによって生まれてきたものです。しかし、そうであればあるほど、それを淘汰し新たなパラダイムを創造することも、アートによって行う他ないはずです。

芸術は終わっていないし、決して終わらせてはなりません。

カフカの小説のような世界なのです。

春までまだどれくらいあるのだろうか ─フランツ・カフカ

日本銀行券は貨幣でなかった。

ざっと調べてみた所、日本銀行券は法律上「貨幣」としては認められていません。では日本銀行券とは何かというと「日本国の法定通貨」のようです。日本銀行券なので、本当は千円券、五千円券、一万円券であって、千円札、五千円札、一万円札と呼ぶべきものでは無さそうです。お金の世界は実にいい加減な感じなのです。

さらに、千円札、いや千円券に描かれている野口英世の肖像ですが、これは決定的に人選ミスではないでしょうか。野口英世の功績に関して何の異論もありませんが、お金に関してはかなりだらしない人物と言われていて、常に借金まみれだったそうです。(僕もだらしないのですが、金額的に野口英世ほどでは無いと思います。)現在の野口英世にかわってからの、日本国の借金の凄まじさを考えると、かなり問題あるのではないかと思います。

何の話か分からなくなってきましたが、ここで伝えたいことは、千円券は「貨幣」ではないので、「貨幣損傷等取締法」の対象ではないということです。ほかに法令とかあるのかもしれませんが、専門家ではないので分かりません。

知りもしないし、認めても、納得もしていない条件の中で生きることを強いられているのです。それが自然のものならあきらめもつきますが、他人の作った与り知らぬ制度によって、何が罪になるのか分からない、カフカの小説のような世界なのです。

此処を乗り越えない限り、芸術に未来はありません。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない ─ アルバート・アインシュタイン

今回、千円札を使った作品を発表して、僕としては、アンディー・ウォーホルの『リラ紙幣にサイン』やヨーゼフ・ボイス『芸術=資本』といった本物の紙幣に描くことによる、パラダイム転換の発展、ということで制作したのですが、しかし実際に見た人々は、ほぼ全員が赤瀬川原平の『模造千円札』のイメージに捕われてしまっているようでした。

確かに「千円札」という、赤瀬川原平の『模造千円札』のごく表面的な引用はありますが、それ以外『模造千円札』とは全く関係がありませんし、本物の日本銀行券を使っているのに関わらず、人はそこに「偽札づくり」という犯罪を見てしまいます。

もちろん、芸術でも犯罪でもない『模造千円札』を芸術や犯罪にしてしまったのは、警察や検察や裁判所や弁護士であって、赤瀬川原平の責任ではないのですが、とにかく、赤瀬川原平やあの時代(読売アンデパンダン)の作家たちの失敗の、現在にまでまとわりつく影響力を僕は目の当たりにしたのです。

此処を乗り越えない限り、芸術に未来はありません。

クリエイティブ・コモンズ ライセンス 表示-非営利-継承 3.0の下に置かれた15枚の日本銀行券

現代美術家の彦坂尚嘉さんが主催する「フリーアート」第1回展に出品しました。

クリエイティブ・コモンズ ライセンス 表示-非営利-継承 3.0の下に置かれた15枚の日本銀行券
2010年 カンバス、日本銀行千円券、ゴム判、鉛筆、両面テープ

「社会体に組み込まれているとはいえ芸術は、自らを支えるものとしては自分しかもっていません。」─フェリックス・ガタリ

貨幣に価格というものはありません。貨幣は商品ではなく、そのデザインがパブリックドメインに置かれていることからも分かるように、本質はフリーなものなのです。特にニクソンショックによるドルの兌換停止以降、それは決定的なものになりました。芸術作品もまた商品ではありません。芸術作品は自己言及の循環によって成立するものだからです。そして商品ではない貨幣が為替/金融商品として売り買いされることの根拠を芸術作品、特に美術作品が与えている疑いがあります。芸術作品と同じように自己言及性を持つ貨幣ですが、そのままでは決して芸術作品になることはありません。この作品は貨幣に署名し、さらにクリエイティブ・コモンズ ライセンスを付加することで貨幣を芸術に変容させています。貨幣の本質である<フリー>を剥き出しにすることによって、芸術と貨幣の隠された共謀を暴いているのです。

無料主義経済の黎明

芸術には絶対的なものが必要だ。
絶対は相対的なもののなかで現前する。
相対無くして絶対を知ることは出来ないのだ。

無料と1円の間には無限の隔たりがある。
しかし貨幣の中でしか無料を知る事は無い。
無料は絶対である。

作品が無料となる事によって、
否応無くそれは芸術となる。
無料である事と芸術であることは同じだ。

有料の作品は全てエンターテインメントだ。
それは芸術ではなく余興である。
無料は芸術の本質なのだ。

芸術そのものが「生きた貨幣」となり、
あらゆるものが自由に流通し始める。
無料主義経済の黎明がそこにある。

アンテルナシオナル・シチュアシオニスト

この機関誌の編集規則は集団的編集である。個人によって書かれ、個人の署名のあるいくつかの記事も、われわれの同士全員に関係があり、その共同の探求の個別的側面と見なされなければならない。われわれは文学雑誌や美術雑誌のようなかたちで生き残ることには反対している。
『アンテルナシオナル・シチュアシオニスト』に発表されたすべてのテクストは、出展を明記しなくても、自由に転載、翻訳、翻案することができる。

編集委員 ムハマンド・ダフ、ジュゼッペ・ピノ=ガッリツィオ、モーリス・ヴィッカール