ひとり出版社《虹霓社》

メディアが教会や国家や資本に独占されていた時代は終わり、今や個人がISBN付きの書籍を発行できる時代になった。つげ義春公式グッズの製作販売などを行っている「虹霓社」から初出版された復刻本『杉並区長日記ー地方自治の先駆者・新居格』。自由芸術大学で出版記念レクチャー《戦後初の公選杉並区長―新居格から受け継ぐこと》を行うことにもなり、完成したばかりの本を贈っていただいた。
この本には、A3BCのZINEとして出した《民衆芸術論①『黒耀会——アナルコサンジカリズムと民衆芸術』》の貴重な参考文献『大正自由人物語―望月桂とその周辺』の著者小松隆二さんによる〈小伝〉の書き下ろしも収録されている。その中でこの本が出版される経緯に少し触れているので紹介したい。

 戦後になっても、新居を評価し、伝記でも書きたいと思う人は何人も出ている。遠藤斌氏や秋山清氏もその人たちであった。かくいう私も新居伝を書きたいと思いつつ、未だに果たしていない。
 そういったなかで、評伝完成を最初に成し遂げたのは和巻耿介であった。彼らしい評伝を徳島新聞に連載し、まとまった後にいくつかの新居の文章も添えて一冊の著書にしている。しかし、その後それに続く深い研究は出ていない。
 そんな時に、新居の復権を図り、『区長日記』を出版したいという青年が現れた。正直言って驚いた。しかも、新居の多くの著作の中で『区長日記』を選び出したのにも、さらに驚いた。タイトルは一見つまらなそうに見えるが、自由人あるいは普通のアナキストとしての新居が最も良く表現されているのは。『区長日記』であると、私も思いこんでいたからである。
 そんな経緯から、新居の復権への若い古屋淳二さんの挑戦に、私も立ち合うことになった。本書が広く読まれることを切に願う次第である。

小松隆二 「〈小伝〉“地方自治・地方行政の鑑”新居格の生涯と業績――典型的な自由人・アナキスト」 より

11月19日に行うFAUレクチャーでは、杉並の原水禁署名運動について研究する丸浜江里子さんとともに小松隆二さんにもレクチャーしていただくので、ぜひ多くの人に参加してもらいたい。

新しい社会の姿

現在の閉塞感を特定の政党や政治家や選挙の投票率のせいにすることは簡単だが、そのままの態度を続けていれば、いつか幸福が訪れると信じている人はいるのだろうか? 国家のみならず、あらゆる権力の抑圧に抵抗することは永続的に必要なことだとは思うが、そうであるならば、偏屈なアーティスト「ヨーゼフ・ボイス」のかつてのアイデアに、いま耳を傾けて、新しい社会の姿を考えてみるのもいいかもしれない。

 人はいつも現にあるものから出発しなければなりません。そして現にあるものはますます多くの人にとって耐えがたいものであることが明らかになりつつあります。意識的にせよ、無意識的にせよ、ますます多くの人々が現在世界で確立されてしまったシステム、つまり西側の私有資本主義や東側の国家資本主義に反抗しつつあります。人間は本来的にこれら二つのシステムからの出口を求めているのですが、これら二つのシステムはますます統合されつつあり、それゆえに人間に対する集中的な抑圧体制が強化される傾向にあります。こう考えてくると、先ず第一のそして最も重要なことは、人間に一つの実際的な道を示すことです。即座には抜け出せられない悪魔的循環のように見える状況をどうすれば打ち破ることができるか。
 それはまだ多くの人達によって理解しがたいものなのですが、最も容認しうる、そして最も簡単に理解されうる道は、民主主義の道なのです。それゆえに私はすでに数年前から、人々がどのようにすれば立法に干渉できるかを学べるように、直接民主主義のための組織を創立したのです。それはとても簡単な技術です。理解しがたいものではありません。つまり、最初の一歩は、もう政党のボスを選ぶ必要はない、ただ単にもはや政党政治を支持する必要はないという認識なのです。
 それは最初の消極的処置です。つまりもう選挙しないということ。第二の積極的処置は、そのような選挙が行われるにしても、できるだけ特定のイニシアチブ・グループから出された法律提案にとどまるのではなく、国民投票にまで進むということです。いつも党の代表者を選ぶという慣らされた態度に参加しないということによって、現存する機構全体を内部から解体することが促進されるのです。しかしこの解体にとどまっている訳にはいきません。解体作業と同時に積極的な組織的運動を推し進めなければなりません、そして民主主義の内部ではそれが国民投票でしょう。それこそ、私たちが集中的に活動している事柄なのです。

『ヨーゼフ・ボイスの社会彫刻』ヨーゼフ・ボイスとのインタビューより抜粋

あなた達自身が国家です、 皆が! だれもが!

「今回の選挙、くだらなすぎる」 と東浩紀が投票棄権の賛同署名を集めたそうだ。そんな署名はくだらなさすぎるといいたいところだが、心配で心配でしょうがないのだろう。

1970年のドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州議会選挙で『フルクサス・ゾーン・ヴェスト』のヨーゼフ・ボイス、ヨーナス・ハフナー、ヨハネス・シュトゥットゲンは連名で棄権を呼びかけている。


もう政党には投票しないで下さい。なぜなら、政党は経済的強者の味方であり、大衆の生産力を収奪する者の味方だからです。

あなた達自身が国家です、 皆が! だれもが!

あなたたちの所有している権力を、自己決定する権利に基づいて行使しなさい。

あなた達自身を統治しなさい

非暴力

――ヨーゼフ・ボイス、ヨーナス・ハフナー、ヨハネス・シュトゥットゲン――


東浩紀は自分は選挙行くかもということだそうで、行動自体が他人事でいくらでも言い訳ができるが、『フルクサス・ゾーン・ヴェスト』の棄権の呼びかけは革命家のそれだ。

もう二度と政党には投票しないで下さい。皆が、だれもが、芸術を、つまりあなたたち自身を選ぶのです!皆が、だれもが投票棄権者として自分たちを組織し、真の野党になろう!皆が!だれもが!あなたたちが所有している権力を、自己決定する権利に基づいて行使しなさい。皆が!

世界戦争の記憶が途絶えつつある今、果たして《直接民主主義》は可能なのだろうか?

芸術と政治をめぐる対話

自由芸術大学の読書会で11月1日(水)から、《ミヒャエル・エンデ/ヨーゼフ・ボイス『芸術と政治をめぐる対話』を読む》を行うことにした。FB上では評判が良い(リーチが多い)ようだが、だからといって参加者が増えるというわけでもないのは、SNSの「存在の耐えられない軽さ」なのだろう。絶版なのか、Amazonで検索すると19,157円という法外な値段をつけているところもあるが、3,000円前後で買えるようだ。岩波文庫にでも入れてほしい。

ライナー・ラップマンが書いた序文を紹介します。


はじめに

 この本の成立事情について、詳しくお話しよう。ヨーゼフ・ボイスとミヒャエル・エンデに対談してもらおうという考えが実現するまでに、二年かかった。一九八五年二月八日から十日にかけての週末は、待ち望まれた日であり、たしかに私たちの仕事の頂点でもあった。金曜の午後、ミヒャエル・エンデは、彼の本の出版元であるエディチオーン・ヴァイトブレヒトの二人――つまり社主のヴァイトブレヒト氏と、編集者のホッケ氏――といっしょに到着した。ヨーゼフ・ボイスは、FIU(自由国際大学)事務局のウルリケ・ハーベルといっしょに、電車でやってきた。
 午後のコーヒーを飲んで打ち解け、まだ子どもの叫び声が聞こえるうちに、会話がはじまった。そして夕食後、私たちの小さな話の輪には、いま挙げた人のほかに、FVA(アルゲンタール自由市民カレッジ)のメンバーが加わった。ミヒャエル・フール、ダグマル・クレミーツ=フール、マリタ・ラップマン=コップ、ミヒャエル・ライン、ベルント・フォルク、ガービ・フォルク、それに私。
 翌日、アハベルクのフンボルト・ハウスでは、さらに多くのFVAの仲間が加わって、討論が行われた。そして日曜の午前、討論の成果が、ヴァンゲン・ヴァルドルフ学校の記念ホールで、千人をこえる聴衆に披露された。
 ふりかえって見ると、金曜の晩の最初の会話が、いちばんおもしろかった。そこで、まずそれを本にすることにしたのである。この本に収めた写真は、どれもみんな、二日目か三日目のものである。
 なぜ私たちは、FVAという枠のなかで、ヨーゼフ・ボイスとミヒャエル・エンデを会談させようと考えたのか? ふたりには共通の前提があったからである。ともに有名な芸術家であるふたりは、ルドルフ・シュタイナーの思想と真剣に取り組んでいたのだ。思想家で人智学者のシュタイナーは、第一次世界大戦後の混乱期に、『社会有機体の三層化』によって、現代の社会の状況を健康にしようと考えて、登場した思想家であり人智学者である。彼はその思想を、一本の赤い糸に結びつけた。その糸は、すでにフランス革命において輝いたものだが、とくにフリードリヒ・シラーはその糸を。書簡『人間の美的教育について』において、まったくちがったふうに撚り直した。シュタイナーは、単一民族国家の利害関係をこえて自由な《精神》を擁護した。《法》において民主的な平等を擁護した。連帯と兄弟愛をもとづいた《経済》を擁護した。その姿勢は、当時、左のイデオローグたちの車輪と右のイデオローグたちの車輪にはさまれてしまった。シュタイナーの思想がはらむ射程に気づいた人は、ごくわずかだった。その思想を自力で発展させることができた人は、数えるほどしかいなかった。すくなくとも第二次世界大戦後、まさに、「政治的なシュタイナー」と取り組みつづけている少数派のひとりが、ヨーゼフ・ボイスである。彼は、シュタイナーの思想の「地上ステーション」とか「投錨地」を、現代に確保することが、自分の課題だと考えた。そういう炎としてシュタイナーの思想は、ボイスと生活と仕事を貫いていた。とくにそれは、60年台後半に「芸術という概念を拡大する」というキーワードで脚光をあび、最終的には「社会という彫刻」という考えに集約されるようになったものにおいて、明らかである。

 ミヒャエル・エンデの仕事においても、似たようなバックグラウンドがあるようだ。いちばんはっきりそれが目につくのは、エプラーとテヒルとの会話『オリーブの森で語りあう』だが、そこではエンデが直接、三層化の局面について語っている。彼がこの思想と取り組むようになったのは、一九六八年にまでさかのぼる。「ヒューマニズム・ユニオン」のメンバーとして、学生運動に参加した頃だ。当時、彼はシュタイナーの三層化の考えに、自分の探していたものを発見した。「つまり、はたと気づいたのです。自由・平等・兄弟愛という三つの理想、あるいは自由・民主主義・社会主義といってもいいわけですが、これらは、たったひとつの社会有機体(つまり国家)の手によって実現されるべきだとすると、お互いに排除しあわなくてはなりません。それぞれ独自の法則によって動いているこれら三つが、おたがいに作用しあうには、それぞれの当局がたがいに独立していなくては、不可能です。《精神》は『アナーキー』であるべきです。《経済》は『兄弟のように』または『ソーシャルで』あるべきです。そのあいだで《国家》は調整役として、法律をつくって、その適用を保証すべきなのです。そこだけが。平等(または民主主義)の場です。法律はだれにも等しく該当するわけですから」。
 結局、ふたりの芸術家は、一方の領域、つまり芸術が、もう一方の領域、いわゆる「政治」に、どこまで介入するべきか、介入できるかについて、広範囲にわたって自分の考えを述べることになった。ヨーゼフ・ボイスは、芸術の概念を拡大した。未来の造型のフィールドとなるのは直接、社会有機体であり、みんなの参加によって、その有機体を、未来の美、目には見えない彫刻に展開・発展させるというのだ。これにたいしてミヒャエル・エンデは、芸術の概念をむしろもっと狭くとらえる。彼の考えによれば、芸術家には、特殊な使命がある。意識をつくりあげるような「イメージ」、新しいライフスタイルを提出することだ。大多数の人々が望ましいと思うような、あるいはそれしかないと思うような、未来の社会秩序をあらわしたイメージとかライフスタイル。それを提出するのが、芸術の課題というわけだ。
 ふたりの出会いを準備していた段階では、私たち自身、つまりアルゲンタール自由市民カレッジのメンバーは、このような微妙な差異にほとんど気がつかなかった。私たちのインスピレーションの源泉のひとつは、いずれにしても最初から、「社会有機体の三層化」の思想であり、ヨーゼフ・ボイスが取り組んだように、それを時代に即して加工し展開することだった。じっさいボイスとは個人的な関係があり、とりわけそれは、共同プロジェクトとして結晶した。しかし私たちは文化の領域で活動しているわけだから、同様にミヒャエル・エンデの視点のおかげで、私たちの立場が明確になり、細かいちがいのあることもわかった。

 一九八五年二月に出会ったとき、ヨーゼフ・ボイスがその後一年もたたないうちに、還らぬひととなろうとは、だれひとり思いもしなかった。ミヒャエル・エンデも最初は、会話の記録を公表する決心がつかなかった。こうして出版の話は、先送りになった。とはいえ、時間をこえて興味深いことがじつに多く語られているし、また重要なドキュメントでもある。というわけで私たちは、第一ラウンドの会話を世に問う決心をしたのである。ありがたいことにミヒャエル・エンデとヨーゼフ・ボイス遺作管理委員会は、計画に理解をしめしてくれた。編集にさいして心がけたのは、発言wそのまま、ということは断片のまま、収録することだった。ただし、忘れないでいただきたい点がある。ミヒャエル・エンデは、ヨーゼフ・ボイスとちがって、視点のいくつかを明確にするため、草稿に手を入れることができた。
 経済的な援助をしていただいた「政治エコロジー協会」、そして、テキストの編集の手助けをしてくださったみなさんにも、お礼を申しあげたい。
 これから世に出るこの本が、興味をもって読まれ、さまざまな立場を明確にし、新しい考えのきっかけとなり、また、未来の芸術の課題にかんするアクチュアルな議論に役立つことを、私たちは希望し、期待する。

本書をFVAのメンバーおよび賛助メンバーに捧げる。

一九八九年夏 アルゴイ/ヴァンゲンにて

ライナー・ラップマン


丘沢静也 訳 一九九二年 岩波書店

 

 

 

 

 

 

 

 

オーロラの碑

記念碑の由来

 昭和二十八年十一月に開設した杉並区立公民館においては、区民の教養向上や文化振興を図るため、各種の教養講座が開かれ、また、社会教育の拠点として、区民の自主的活動が行われてきました。
 これらの活動のなかでも、特筆されるものは、昭和二十九年三月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広範な区民の間で始まった原水爆署名運動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。
 その公民館も老朽化により平成元年三月末日をもって廃館されましたが、その役割は杉並区社会教育センター(セシオン杉並)に発展的に継承されております。
 ここに、公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。

平成三年三月

東京都杉並区

わたしはドン・キホーテ気どりである

「わたしはドン・キホーテ気どりである」と戦後の初代公選杉並区長「新居格」は云う。『杉並区長日記』には、「世界の杉並区―私の文化設計―」として、杉並区をワイマールのような文化都市にしたいと書いた。

荻窪駅の北側にある大通り、あのあたりがわが杉並区のセンターともなろう。よき図書館、上品なダンスホール、高級な上演目録をもつ劇場、音楽堂、文化会館、画廊などがあってほしい。

現在、荻窪駅北口の大通りの向かい側には、「驚安の殿堂 ドン・キホーテ」が目立っている。

格は色紙に書いている。

路と云ふ路は
羅馬に通ずれば
ドン・キホーテよ
でたらめに行け

荻窪駅北口を走る青梅街道は、今でもワイマールに通じているのだ。

第8回 前橋映像祭2017

毎年鑑賞者として参加していたら、なぜだか実行委員になっていた前橋映像祭。ダダイストの白川昌生さんが実行委員長ならではのダダっぷりだ。今年で、もう8回目になりますが、年々充実した映像祭になっています。一度映像作品も作ってみたいと思う今日この頃、今年は11月25日(土曜)26日(日曜)に開催しますのでぜひご参加ください!

https://maebashimediafestival2017.jimdo.com/