加藤一夫の民衆芸術論「民衆芸術の主張」

大正期に民衆芸術についてどのような議論が起こったかについて、よくわかるエッセイであるが、こんな風に真面目な議論のある新聞や雑誌は今あるのだろうか?

民衆芸術に関する考察

 民衆は何処に在りや
 民衆運動即自省更生
 民衆芸術の意義
 民衆芸術の主張

試論「藝術と地球環境」

「民衆芸術」について考えているのですが、以前(2003年頃)書いた試論「藝術と地球環境」を読み返してみました。データはきっとDVDかなにかにあるのですが、探すのが大変と、Internet Archiveで以前のサイトを確認したら見つかったので、今のサイトにも掲載しておきます。
「民衆」ではなく「環境」からの視点で芸術を考えてみているのですが、考えの基本は相変わらず同じなんだなと、妙に納得しました。

藝術と地球環境

加藤一夫の民衆芸術論「民衆芸術の意義」

加藤一夫は民衆芸術論の後に農民文芸論を出している。加藤にとっての芸術とは「文芸」のことであった。直接的に感情の吐露を表現できる美術に比べ、言語による抽象化が必要で、その教育も不十分であった文芸は、民衆芸術としては敷居が高いかもしれない。民衆芸術としての文芸を、民衆自らがどのように創造していくのか、その糸口を見つけ出そうと苦悩している加藤の考察である。

民衆芸術運動(40)

金井正の地元、神川小学校で開催され、大成功を収めた児童自由画展は、各地の教育者の手によって、全国で開かれるようになる。各紙新聞社共同主催の「世界児童画展覧会」も開催され、『赤い鳥』をはじめとした児童雑誌でも児童画の応募連載が行われるようにもなった。山本鼎はその開催や講演会に協力して全国を飛び回っていた。
大正一〇(一九二一)年に行われた群馬県高崎公会堂での児童自由画展覧会と講演会の準備において問題が起きる。この展覧会を企画したのは、「高崎白衣大観音」の建立者として知られる、井上保三の長男、井上房一郎である。父に薦められ、大正七(一九一八)年、早稲田大学に入学した房一郎はその門をくぐることなく、東京美術学校の生徒だった白井壮太郎らと都会・文化生活を楽しんでいる。二年後早稲田を中退し、高崎に戻った後も、白井を通して購入した輸入レコードによるコンサートを高崎公会堂で開催したりしている。
その井上だが、大逆事件で無実の罪に問われ刑死した幸徳秋水が日本に紹介したクロポトキンの書物に対する当局の検閲が極めて厳しいことを知ってか知らずか、児童自由画展覧会と講演会の趣意書の中にクロポトキンの教育論の一節を引用していたのだ。発起人として名を連ねていた県の学務課長が趣意書を読み恐れをなして各県に出品自粛の文書を送った。前年九月の『改造』に伊藤野枝による「クロポトキンの教育論」が発表されているので、社会主義にも興味のあった井上は『改造』を読み、その教育論に感銘を受け趣意書に引用したのかも知れない。
山本鼎は『自由教育』四月号に「クロポトキンの祟り」と題して、その経緯を説明している。

 

二十日の早朝、僕は金井君を誘って、前橋へ出かけた。蓋し、此展覧会に就いて群馬県の学務課長から出品妨害の文書が各郡の視学に配られたという事が伝えられ、事実発起人等の熱心な努力も甲斐なく、郡部からの出品は、殆ど無いとも云える位であったので、僕は憤慨しちまって、学務課長に実情の質問をせねばならぬと、珍しく早起きしたのであった。学務課長はまだ寝て居たらしく随分長い間待たされた。――僕が来意を述べると、若い課長はこう弁疏した。
「あの事に就いては、東京の新聞に出たので驚いた――心配して高崎の方をしらべさしたら郡部の出品が殆ど無いという事なので心配した――実は最初高崎から二青年が見えて、自由画展覧会の企てを述べて自分に発起人となる事を望まれたので、自分も自由画展覧会の主意には賛成して発起人になったのであった。処が、各所へ配られた其の趣意書を見ると、主催者の一人が、クロポトキンの句を引用して居る。これを見て私は迷惑を感じた、なぜならば、御存じの事と思うが、凡そ若い教育者程過激思想に感染し易い者はないので、自分の地位としては、クロポトキンの句の記載されてあるような趣意書に発起人として名を列ねる事は出来ないのです――それ故「募集書中に気に入らない点があるから出品する場合には熟考する様に」という刷り物を郡視学に配布したわけであるが、決して自由画展覧会其のものを妨害したわけではありません」
まったくクロポトキンの句が祟ったのであった。それにしてもクロポトキンのようなむしろ人の良すぎる位な人の言葉が吾々の展覧会に障るのだからおかしい。

 

加藤一夫の民衆芸術論「民衆運動即自省更生」

加藤一夫の民衆芸術論、民衆芸術に関する考察の第二節「民衆運動即自省更生」をタイプした。キリスト教徒からアナキスト、そして天皇主義者へと変遷転向した加藤の心の動きが垣間見られる文章だった。

民衆芸術運動(39)

山本鼎はロシアで観た「児童創造美術展」に影響され「児童自由画展覧会」を開いたのだが、なぜ”創造“美術展ではなく、”自由“画美術展としたのかを、大正九年八月の『中央公論』「自由画教育の要点」の中で説明している。

自由画という言葉を選んだのは、不自由画の存在に対照しての事である。云うまでもなく不自由画とは、模写を成績とする画の事であって、臨本―扮本―師伝等によって個性的表現が塞がれてしまう其不自由さを救おうとして案ぜられたものである。
 創造(Creation)という字が一般に解り易いものならば勿論それが良い。露西亜では自由と云わずに、児童創造展覧会と云って居るそうだ。――併し、吾が従来の図画教育に対する時、自由画という字はむしろ適切ではないか。自由が不自由に代わった時、創造が模写に代わった時、はじめて自由という言葉は勇退すべきであろう。

「自由」という言葉は議論を呼んだようだ。いまだに「自由」に対して拒否反応を起こす人は多い。図画教師は自由を放任とみなし鼎を悩ませたし、「自由画教育の要点」掲載の翌月にはおなじく『中央公論』に「山本鼎氏の自由画教育提唱に対する図画教育者側の抗議」として、その時点での教育者の視点からの批判もあった。批判や問題は多々あったが、自由画教育運動は全国に広がり、図画講師が教育者として、また学校として自由画教育を取り入れていった。
児童自由画展覧会第一回展後に立ち上げた「日本児童自由画協会」は翌年、北原白秋らも参加し「日本自由画教育協会」に改名、白秋のわらべうた唱歌や『赤い鳥』の児童文学改革や、土田杏村、金井正、山越脩三らの上田自由大学設立に端を発した自由大学運動につながっていく。

自由画教育をいち早く取り入れた学校に大正自由教育の先鋒「成城小学校」があった。成城小学校では創作版画も授業の一環として行われ、昭和六(一九三一)年、成城小学校の美術教師であった内山嘉吉が上海で書店を営んでいた兄完吉を訪れ、兄夫婦等に版画を教えていた時に、たまたま立ち寄った魯迅の依頼で美術学生に創作版画を指導し、中国革命の一端を担う「木刻運動」にもつながっていった。

本間久雄の民衆芸術の意義及び価値

大杉栄が『新しき世界の為めの新しき芸術』の中で「本間久雄君は何事にも篤志なしかし無邪気な学者である。だから君は、エレン・ケイの「休養的教養論」を一読して、至極殊勝な篤志を起したものの、却って安成貞雄君に散々に遣っつけられたように、へまな民衆芸術論の説きかたをしたのである。」と批判した『民衆芸術の意義及び価値』を読んでみた。それは大衆(向け)芸術論であって、民衆芸術論ではなかったし、大衆芸術論としてもつまらないものだった。しかし、この論によって、「民衆芸術」やさらに「民衆」について議論されるきっかけとなったのだから、それはそれでよかったのかもしれない。現代のハリウッド映画やテレビ(ニュース・ドラマ・コマーシャル)、体験型・参加型アートに代表されるような大衆教化の芸能・芸術がどのような考えに基づいて作られているのかを知ることも出来るだろう。

民衆芸術の意義及び価値|本間久雄

加藤一夫の民衆芸術論

民衆芸術について再考するということで、勉強がてら資料を作っていこうと、ブログに書いている。まとまったら『A3BCブックレット』にしていく予定だ。
民衆芸術ついては大正時代に深く考察されている。それらはすでに著作権が切れていて、国会図書館のデジタルコレクションに入っているのだが、旧字の本をスキャンしたもので、とにかく読みにくい。この資料もタイプしながら分かりやすくしていっている。前回、加藤一夫の『クロポトキン芸術論』の第一章をタイプしたが、加藤一夫の『民衆芸術論』を読みたくなったので、今回はこちらの第一章をタイプした。これらも読みやすいブックレットにして安く手に入れられるようにしたい。そのうち勉強会でも開こうかと考え始めている。

版画と複製

一点の美術作品を目指した創作版画。日本では版画家という職業が認められたが、欧米には版画家という肩書は無いと聞いている。たとえ自画・自刻・自摺であっても、それは複製を前提とした「Print」であって、複製芸術として成立した。ある創作版画家は、海外のギャラリーでは刷りが少しでも違うと受け取ってくれないと嘆いていた。たとえば恩地孝四郎の版画は完全な複製が出来るものは少ないがしかし、装丁作家でもあった恩地の作品は印刷を前提としたものも多かった。それは商品になりにくいものだ。そういう意味においても版画は民衆芸術なのだろう。

民衆芸術運動(38)

大成功を収めた第一回日本版画協会展のひと月後、山本鼎が目をかけていた甥の村山槐多が、流行性感冒により二十二歳の若さで亡くなった。通夜には槐多や鼎の友人が集まり、石井柏亭の弟で彫刻家の石井鶴三がデスマスクをとった。鼎は『中央美術』四月号に槐多の追悼文を寄せている。
槐多の死を悲しむ間も無く、三月には美術雑誌『みずゑ』が版画特集を組むなど、鼎は時の人となる。前年の十二月十七日に神川小学校で『児童自由画の奨励』という講演を行い、児童自由画展に向けて準備を始めていた鼎たちは、三月十三日に印刷の上がってきた「児童自由画展趣意書」を昨年の講演の来場者や県内の小学校に送り、作品を募った。四月十五日には、集まった九千八百点の児童画から千八十五点を選び、神川小学校に展示した。四月二七、二八日の二日間、第一回児童自由画展覧会は開かれる。初日に行った講演には六百名もの観客がつめかけ、その盛況ぶりを信濃毎日新聞や読売新聞が特集記事にし、美術雑誌や教育誌にも記事が掲載され、「自由画教育」は運動として全国に広がっていく。