絶筆としての憲法9条

zeppitsu

第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

著作権と自由の侵害

芸術はその発生から、現在に至るまで変わること無く、「自由の技術」でありつづけていますが、常に「反芸術」という状態も起こりますし、最近、特に状況は悪化しています。「反芸術」勢力が世の中に溢れてきているのです。

芸術が反芸術に堕落するその一番の原因は「(自然権として売り買いされる!)著作権」です。ワールドワイドウェブという自由の道具が現れ、その反動として、アートを囲い込み、利用して金儲けをする企業/団体による著作権の強化が行われています。これまで、芸術の創造者は「著作権」について、それがあまりに不当な金儲けに使われない限り、それほど気にしていませんでした。なぜなら、いくらでも新たに作品を制作することが出来るし、ひとつの作品を作り終えた後には、次の創造に向かうからです。作品に秘められた創造力が世界に広まったり、誰かの創造力を刺激するきっかけになれば、それで良いわけです。作品やその複製がたくさん売れて、必要以上の金儲けをすることなど、芸術にとってはどうでもいいような些細なことなのです。

「著作権」を非親告罪化しようとする反社会勢力/反芸術勢力が存在し、勢力を拡大しています。この自由の侵害に対して、「自由の技術」に関わる芸術家が立ち上がらなくてはいけません。それが出来なければ、自由と芸術は死に絶えてしまうでしょう。

カフカの小説のような世界なのです。

春までまだどれくらいあるのだろうか ─フランツ・カフカ

日本銀行券は貨幣でなかった。

ざっと調べてみた所、日本銀行券は法律上「貨幣」としては認められていません。では日本銀行券とは何かというと「日本国の法定通貨」のようです。日本銀行券なので、本当は千円券、五千円券、一万円券であって、千円札、五千円札、一万円札と呼ぶべきものでは無さそうです。お金の世界は実にいい加減な感じなのです。

さらに、千円札、いや千円券に描かれている野口英世の肖像ですが、これは決定的に人選ミスではないでしょうか。野口英世の功績に関して何の異論もありませんが、お金に関してはかなりだらしない人物と言われていて、常に借金まみれだったそうです。(僕もだらしないのですが、金額的に野口英世ほどでは無いと思います。)現在の野口英世にかわってからの、日本国の借金の凄まじさを考えると、かなり問題あるのではないかと思います。

何の話か分からなくなってきましたが、ここで伝えたいことは、千円券は「貨幣」ではないので、「貨幣損傷等取締法」の対象ではないということです。ほかに法令とかあるのかもしれませんが、専門家ではないので分かりません。

知りもしないし、認めても、納得もしていない条件の中で生きることを強いられているのです。それが自然のものならあきらめもつきますが、他人の作った与り知らぬ制度によって、何が罪になるのか分からない、カフカの小説のような世界なのです。

此処を乗り越えない限り、芸術に未来はありません。

我々の直面する重要な問題は、それを作った時と同じ考えのレベルで解決することはできない ─ アルバート・アインシュタイン

今回、千円札を使った作品を発表して、僕としては、アンディー・ウォーホルの『リラ紙幣にサイン』やヨーゼフ・ボイス『芸術=資本』といった本物の紙幣に描くことによる、パラダイム転換の発展、ということで制作したのですが、しかし実際に見た人々は、ほぼ全員が赤瀬川原平の『模造千円札』のイメージに捕われてしまっているようでした。

確かに「千円札」という、赤瀬川原平の『模造千円札』のごく表面的な引用はありますが、それ以外『模造千円札』とは全く関係がありませんし、本物の日本銀行券を使っているのに関わらず、人はそこに「偽札づくり」という犯罪を見てしまいます。

もちろん、芸術でも犯罪でもない『模造千円札』を芸術や犯罪にしてしまったのは、警察や検察や裁判所や弁護士であって、赤瀬川原平の責任ではないのですが、とにかく、赤瀬川原平やあの時代(読売アンデパンダン)の作家たちの失敗の、現在にまでまとわりつく影響力を僕は目の当たりにしたのです。

此処を乗り越えない限り、芸術に未来はありません。

無料主義経済の黎明

芸術には絶対的なものが必要だ。
絶対は相対的なもののなかで現前する。
相対無くして絶対を知ることは出来ないのだ。

無料と1円の間には無限の隔たりがある。
しかし貨幣の中でしか無料を知る事は無い。
無料は絶対である。

作品が無料となる事によって、
否応無くそれは芸術となる。
無料である事と芸術であることは同じだ。

有料の作品は全てエンターテインメントだ。
それは芸術ではなく余興である。
無料は芸術の本質なのだ。

芸術そのものが「生きた貨幣」となり、
あらゆるものが自由に流通し始める。
無料主義経済の黎明がそこにある。

農地解放とメディア解放

戦後の農地解放が気になる。日本人の半数以上が農民だった頃の話しだ。これは維新よりも敗戦よりも重要な出来事だと思う。農地解放が日本に何をもたらし、なにを奪ったのか。地主から土地を奪い、小作農に農地を与えたという以上の何かがそこにはある。現在の穀物自給率約30%というこの自然環境に恵まれた日本のゆがみの原因がそこにはある。年間三万人を越える自殺者、派遣労働の問題の原因がそこにはある。都市のことばかり考えても、日本の現状を理解することは決してできないだろう。そして今、戦後の農地解放と同じことが起きている。それは安価な記録/編集機材とウェブによるメディア解放だ。ここで安っぽい開放感に浸っているだけでは、溢れる情報に押しつぶされるだけだろう。

墓場としてのミュージアム

ニューヨークにあるメトロポリタンミュージアムには、数々の美術品工芸品とともにエジプトの墓やミイラが展示されている。ロンドンの大英博物館にはそれ以上のミイラや埋葬品が展示されているらしい。日本語では博物館と美術館は言葉として分けられているが、西洋ではどちらもMuseumである。日本の古墳にも美術品は遺体とともに埋葬されていたし、神社・寺院には宝物殿があったりする。ミュージアムとは公開された墓場である。ハレの場に欠くことのできない芸能・芸術を殺し、ケガレの場に閉じ込めて、それらが内包している破壊的な力、革命的な思考を無力化することにミュージアムの隠された役割があるのではないだろうか。