パトラッシュ、僕はもう疲れたよ

 一八七二年(明治五年)イギリスの作家ウィーダが一九世紀のベルギー北部のフランドル地方を舞台とした児童文学『フランダースの犬』を発表した。日本語版は明治四一(一九〇八)年一一月に日本基督教会の牧師の日高善一(柿軒)の翻訳で内外出版協会から出版されている。
 「芸術」という言葉と意識は明治以降に輸入され、その頃の日本人にとっての芸術とは『フランダースの犬』の主人公、ミルク運びの仕事をしながら画家を目指していたネロが憧れ、自らの死と引き換えにやっと見ることが出来た、ルーベンスの絵画「キリストの昇架」のような、生活から遠く離れた神や権力の象徴であっただろう。
 大正一四(一九二五)年に、同人誌『青空』一月創刊号に発表された梶井基次郎の『檸檬』は、京都丸善に置いてある、主人公が大好きだった「アングル」などの画集を積み上げ、爆弾に見立てたレモンを仕掛ける短編小説だ。明治には神聖なものであった芸術は、大正の終わりには破壊の対象となっている。その間には「民衆芸術運動」があったのだ。
 産業革命―資本主義が興ると同時に、人間は労働者となった。そのような時代にロマン・ロランは芸術を通して「民衆」を発見した。労働者が芸術を持つことで、民衆となる。ロマン・ロランの『民衆劇論』を大杉栄は『民衆芸術論』として翻訳・発表し、民衆による、民衆のための芸術が必要だと訴える。それぞれの人が、それぞれに沸き起こる感情を表現することこそが、自主・自立の礎であるとする望月桂の考えと同調し「黒耀会」が誕生した。死の芸術よりも、生の芸術を! 死の拡充よりも生の拡充を!
 しかし、ネロはつぶやく。「おおパトラッシュ、可哀想なパトラッシュ。ふたり一しょに死のう。世間の人は、もう僕たちには用がないのだ。ここで横になって死のう。僕たちはたったふたりっきりだ。」ここでも、芸術には民衆が欠けているのだ。

絵画への我が一考

絵画への我が一考
望月桂

無才、無能、無力の我が生涯を顧みて、「新しい事、珍しい事、良い事、為になる事」など考えた事もない無精者だが、ただ真美の追求を続けて八十余年を過ごしてしまった。その間反省と信念の繰返しで生きたまでであった。その一面に趣味として絵を描く事を嗜んだが、今それを思い起こして感慨深いものがある。
よく「私は絵はだめだ」と天から相手にしない人が多いが、それは、描こうとする試みと勇気が足りないので駄目なのだ。上手下手は別として描かないから描けないのだ。人、器用必ずしも良い絵が出来る訳ではない。世に言う吃の雄弁という事がある。人は誰れでも自分が一番大事であってみれば、自分でした事は、他人にして貰うより大切な筈だ。他人の手で掻ゆい処を掻いて貰っても思うように手が届かぬと同様だ。自分の自由の大切さを知ってこそ、他人の自由さも察しられる。近頃個性尊重、人間尊重の言を度々耳にするが、それはエゴではなく、先ず自分の自由の大事さを知ってこそ、初めて他人の自由の尊さも判るということだ。そして知るだけでなく、行って初めて知る意義をなすと、自らを励まして来た。
お釈迦様の唯我独尊を俗人は自分に都合よく狭義に解するが、それは人共に唯我独尊の意で、自ずから調和融和の美の世界を指すと、判る様な気がする。そこで醜悪に挑戦することは美挙だと思う。潤おいある人間純化、並びに社会浄化には欠かせない、詩情ある芸術を欲する。物質先行文化の社会に於いては特に精神的遅れが目立つ。されば趣味芸術に依る、人的運動の必要を痛感させられる。
それもまた例えば児童が勉強を嫌うと言うが、敢えて教えようと強いるからで、教えようとする前に、その事への面白みを持たせる事だ。人は個性才能に相違ありと言う。だがそれも先天性にのみ任せず、努力開拓が可能だ。絵はあらゆる事の基礎だ。全ての人に絵心を持って貰う運動は革新への一歩だと信ずる。自然と自由を愛する人の集まりに依って初めて平和な社会は出現すると信じる。

民衆芸術運動(20)

1945年、日本軍敗戦。太平洋戦争中に勤めていた高島屋工業青年学校の寮生を引き連れ、郷里明科に疎開していた望月は、寮生を帰京させ、自らは明科にとどまる。実家で農業、畜産を行いながら農民組合、農協の設立に奔走する。
1955年には、松本の松南高校に請われ、美術教師に就任、以後十余年にわたり美術教育に尽力する。
1975年に信州新町美術館で初めての個展を開く。同年12月13日望月桂永眠。
長年社会運動に携わりながらも、権力闘争に与することなく、美術を通して自主自立、相互扶助を求め自由に生きた、日本で唯一のアナキスト画家は、89年の生涯を閉じた。

民衆芸術運動(19)

無期懲役の判決を受けた和田久太郎は、1928年2月20日、収監されていた秋田刑務所で自殺する。和田の身元引受人になっていた望月桂は、近藤憲二と共に遺骸を引き取りに行き、火葬する。
獄中からの和田の願いを聞き入れ、逮捕された同志や社会主義者の救援に奔走していた望月であったが、和田の死後活動の一線から身を引き、和田の死をいち早く知らせてくれた、読売新聞記者の宮崎光男の紹介で、読売新聞社に入社し「犀川凡太郎」として約三年間紙面に風刺漫画を描くなど、生活の立て直しをはかる。美術学校時代の同級生の岡本一平、藤田嗣治らと1938年に漫画雑誌『バクショー』を創刊するが、翌年、軍部の指令により配紙を止められ、廃刊に追い込まれる。

民衆芸術運動(18)

陸軍憲兵隊に虐殺された、大杉栄たちの弔いとして、労働運動社の和田久太郎と村木源次郎はギロチン社の古田大次郎と共に、震災時の戒厳司令官だった軍事参謀官陸軍大将の福田雅太郎の暗殺を企てる。1924年9月1日に決行されるが、拳銃の一発目に空砲が入っていたため失敗。和田久太郎が逮捕される。望月桂も事件後すぐに関係を疑われ検束されるが、短い拘留の後、釈放された。
和田は逮捕されて間もない9月20日付けで、望月に手紙を送っている。

君の家庭の如き幸福な善良な人々には、とくに福子夫人の如き人には、あまり心配させるような事はするなよ。第一線には俺のような浮浪人が起つ、独身者に限る。君のような人は陣の背後にあって補助的事務をやってくれ、傷つき倒れる者の病院に成ってくれ。これまた大事業だ。最大必要事だ。

民衆芸術運動(17)

大杉栄らの遺体は家族に引き渡され、9月26日に火葬され労働運動社に祭られた。駒込署に勾留されたままだった望月に尾行が「大杉さんがやられました」と告げ口したのは、震災からひと月が過ぎた10月1日だった。10月5日には釈放されるが、震災の被害が収まらず、大杉の葬儀さえ後回しにしないとならない状況の中、家族を連れて長野明科の実家に身を寄せる。11月末には東京に戻り、第四次『労働運動』の刊行を手伝い、12月26日に行われた大杉栄の葬儀にも参列した。その前夜の通夜に、焼香客を装った三人組の右翼が突然拳銃を発砲しながら、大杉の遺骨を強奪する。逃げ遅れた下鳥繁造を和田久太郎が取り押さえたところへ望月も追いつき、怒りにまかせて下鳥の顔を下駄で踏みつけにする。告別式は遺骨不在の中、予定通り谷中斎場でとりおこなわれた。

民衆芸術運動(16)

1922年9月30日、大阪天王寺公会堂で労働組合の全国統一連合を結成すべく「日本労働組合連合」の創立大会が開かれるも、アナ・ボルの対立により決裂し、大会以降その対立は激しさを増していく。

1923年9月1日、関東大震災が発生する。戒厳令下において、軍隊、警察とその主導により組織された自警団による朝鮮人、社会主義者への襲撃、虐殺が横行し、望月桂の自宅にも憲兵に扇動された自警団が押し掛ける。警察が介入し、保護を理由に望月は駒込署に留置された。

1923年9月16日、震災後行方が不明だった大杉栄の弟勇一から手紙が届き、大杉栄と伊藤野枝は伴だって避難先である会社の同僚の家へ向かう。勇一は妻と妹、橘あやめの息子宗一と無事に避難していた。宗一を連れ、柏木の自宅に戻る道すがら、陸軍憲兵大尉の甘粕正彦ら憲兵に連行され、大手町の憲兵隊司令部でまだ幼い宗一ともども虐殺される。

民衆芸術運動(15)

へちま時代からの民衆芸術運動の同志であった久板卯之助を失い、黒耀会に対する当局の圧力、アナルコサンジカリスト(自由連合派)とボルシェビスト(中央集権派)の対立の激化、望月桂は次第に民衆芸術運動、労働運動から距離を置くようになり、古田大次郎が創刊した『小作人』の発行を通して農民運動へと活動の場を移してゆく。望月は第一回黒耀会展の直後に日本紙器株式会社でストライキを起こし、勝利したのちに退職し、同人図案社を立ち上げていたのだが、貧乏暇なし、活動の時間と資金を確保しようと印税収入を目論んで、1922年11日、アルス出版から大杉栄と共著で『漫文漫画』を出版する。大杉栄が稿料の全てを使い果たしてしまったので、望月の懐には一銭も入らなかったが、これが望月の唯一の(漫)画集となった。

彼奴年来の主張とかいう『自主自治、相互扶助』に祟られて、明日食う米も無くなったので、一策を案じた結果、大杉栄を引っ張り出して『共著』と銘打って出したのが、今度の『漫文漫画集』なんだ。読者諸君も此の種が判ったらドシドシ買ってやってくれ
『労働者』1922年

望月桂の絵もまだまだです
大杉栄

これが僕の癖、しかもちょっと何かに困った時にやる癖だそうです。
が、僕の癖をつかまえるのなら、そんなつまらない癖でなく、もっともっと面白い、いい癖がある筈です。それは例の吃りから、金魚のように飛び出た大きな目をぱちくりぱちくりやりながら、やはり金魚のように口をぱくぱくとやって、そして唾ばかり飲みこんで何にも云えずに七転八倒しているところなんです。
それがつかまえられないで、こんなつまらないところしか描けないようじゃ、望月の絵もまだまだ駄目です。

『漫文漫画』

民衆芸術運動(14)

1922年1月21日、運動の資金に充てようと売れる絵を描くために、伊豆へスケッチに出かけた久板卯之助が天城山中で凍死する。

さらば久板君!
望月桂

凍死なんていかにも相応しい、
真黒な大空に銀の星の天蓋の下
静かに更けて行く天城山頂の雪の上、
有つたけ燃やし尽くした体は、
仰向いて安らかに、永い眠りに付いた、
彼の死は確に芸術だ!革命家の死だ。

第三回黒耀展と同じく、第四回黒耀会展も「民衆芸術展」として、1922年6月に上野の日本美術クラブで開催される。当局により、二日目に、中止、解散命令を受ける。新聞記事などの資料も残されておらず、実質一日のみのこの展覧会の詳細は不明だが、第三回展の出品者に加え、翌年に前衛美術団体「マヴォ」を結成する村山知義、柳瀬正夢らも新たに参加している。この第四回展をもって、黒耀会の活動も終わりを迎えるが、村山、柳瀬らは「マヴォ」結成直後に展覧会を開き、機関紙も発行している。黒耀会の目指した革命芸術運動は民衆芸術運動から前衛芸術運動へと形を変え、若い彼らに引き継がれたのではないだろうか。

民衆芸術運動(13)

1921年12月24日~27日に北甲賀町の駿台クラブで第三回黒耀会展とされる「民衆芸術展」か開催される。この展覧会は秋田雨雀が読売新聞紙上でソ連の飢餓救援を呼びかけた「日本の芸術家諸君!」に応答したものだった。その数日前に、堺利彦、大杉栄が企画した展覧会がソ連支援を謳ったために中止命令を受け、弁護士の布施辰治や望月桂が尽力して、再開催された。
この展覧会は第一回、第二回黒耀会展と同じくアンデパンダン形式で行われ、望月桂はじめ黒耀会会員も数多く出品したが、展覧会の目的はソ連飢餓救援のための即売会であり、秋田雨雀、有島武郎、高村光太郎、北原白秋、島崎藤村、小川未明など、当時の著名人が数多く出品したことが新聞等に大きく取り上げられるなど、黒耀会の理念からは大きな隔たりがあった。