KOYAANISQATSI

探しものをしていて、コヤニスカッツィの(コピー)DVDが目についたので観る。さめた映画なのだが、80年代はそういう時代だ。六本木WAVEのロードショーに年上の彼女と見に行った。数年後、人づてに結婚するという話を聞いた。会いたがっていたとその共通の知人は言っていたが、その後、彼女ともその知人とも会うことはなかった。その頃は、インターネットも携帯電話も無かったし、固定電話も持っていなかった。会いたい時には残業も多かった彼女の通勤途中の地下鉄の乗り換え口で何時間も待ったものだった。彼女が住んでいた赤坂のワンルームマンションの部屋番号をどうしても覚えられなかったのだ。

ヴァディム・ザカロフとアパート芸術

ソビエトの非公認アートのことを調べたりしていて、そういえば、たしか1998年にNYで世話になったポーランドから亡命?していたアーティストJerzy Kubinaに「やっぱり地下にもぐって活動していたのか」と聞いたりして、「地下にもぐる」といえば、イタリアの赤い旅団の映画『夜よ、こんにちは』のような常に緊張している感じを想像していたのだけれど、そんなことはなくて、実は楽しくやっていたとのこと。見つかったら大変なことになるけど、みんなそうだし、そうはバレないとのことでした。東欧出身のアーティストたちが共同で借りていたブルックリンのユダヤ人街のソーホー・ハウスで半月ほど寝泊まりさせてもらっていて、その仲間の一人はイリア・カバコフのアシスタントをしていると言っていたのを思い出した。で、ソビエトのコンセプチュアル・アーティストVadim Zakharovを調べていたら、今年の5月の雑誌ブルータスの部屋特集に記事があった。リアノゾヴォ派やら、アプトアート(アパート芸術)やらを経て、自由にできる場所やコミュニティを大切にしていたロシアの非公式芸術家は、アーティストとして成功した今でも自分のアトリエをアートスペースとして開放してる。

ソーホー・ハウスのバスルームからはツインタワーが一望できて、それが自慢だとアーティストの一人の女性が言っていたが、もう見えなくなっているのだろう。NYという欲望の街でアーティストとして成り上がろうと頑張っている人たちは大変そうだった。とはいえ楽しく過ごさせてもらった。みんなどうしているのだろうか?もう一度ぐらい行ってもいいかもしれない。

ロシア革命一〇〇年

オスカル・ラビン〈魚とプラウダのある静物〉1968

今年はロシア革命一〇〇年にあたるということですが、政治やマスメディア、アカデミズムの場においてほとんど触れられていないのではないだろうか?グローバリズムの反動として盛り上がってきたナショナリズム的なエートスの中では、触れてはいけないものなのなのかもしれない。自由芸術大学でロシア革命一〇〇年ということでロシアアートについてのレクチャーをやったらどうかと某元現代思想編集長に提案され、準備を進めています。ソビエト時代には「非公認」とも「反社会」ともいわれる芸術があったようで、ソビエトアートを語る上で欠かせないタームのようです。それが国家の承認なのか、資本の承認なのか、コレクターの承認なのかという違いはあるにせよ、「公認芸術」と「非公認芸術」という差別はソビエトに限らずどこにでも、そして今でもあるのでしょう。

 ロートチェンコとその仲間の構成主義者のフォトモンタージュに関する初期の実験では、芸術的対象を見慣れぬものにするための異化効果の使用は、伝統的な再現描写的画法とそれに対する受け手の側の期待を打破すること、および、受け手の眼を、再現されモンタージュ化された対象の直接的経験から、芸術過程それ自体へと、さらには芸術の生成過程における諸条件へと振り向けることを同時に狙っていた。依然として社会主義リアリズムを支持し、既存の芸術に取って代わろうとする生産主義的芸術のアヴァンギャルディズムにひきつづき反感を示す規範の下で、こうしたモンタージュ技法やモダニズム的異化効果の使用は危険なまでに破壊的な創作態度とみなされた。だとすれば、芸術的生産の諸条件を表現するためにはそうした技法を使用し続ける芸術の多くが「非公認」の状態に甘んじたというのも、おそらく驚くにはあたらないだろう。
 そのような「非公認」芸術はまたほとんど常に、芸術的生産の対象を明示し再現することと同様、芸術的生産の「方法」を説明することに関心を払っていた。そうすることで、「非公認」芸術はさらに、リアリズム芸術は「鏡に映すように」対象を再現しうるとよく言われるが、鏡それ自体を再現することにはほとんど関心を示してこなかった、ということを明らかにしたのである。
「失われた美学 マルクスとアヴァンギャルド」マーガレット・A・ローズ

Social Sculptures (everybody is an artist)

ウイリアムモリス「芸術は労働における喜びの表現である」から、ヨーゼフボイスの「すべての人は芸術家である」まで、民衆芸術の流れは途切れることがなかったが、その実践は失敗の連続だったのかもしれない。21世紀になって、その追及は失われたようにも思える。
ヨーゼフボイスのモットーを訴え続ける三人の対話、20世紀末に作られたマヌエル・サイスの「社会彫刻(すべての人は芸術家である)」

委縮効果が起きると私自身が信じていることを表明できなくなる

プライバシーは何かを隠すためにあるのではない。プライバシーは何かを守るためにあるのです。それは個です。個人には自分が信じるところを決定して表現するまでに、他人の偏見や決めつけを逃れて、自分自身のために考える自由が必要だ。そういう意味でプライバシーは個人の権利の源なんです。プライバシーがなければ表現の自由は意味をなさない。プライバシーがなければ、言いたいことを言い、あるがままの自分ではいられない、だからプライバシーがなければ、自分は個として主張することはできない。 エドワード・スノーデン

監視社会の問題について、分かりやすい小笠原みどりさんの話。

中国の剪紙

1994年にフジテレビギャラリーで開かれた『ボイスーマルチプル:博愛のヴィークル』に際して出版した本が、近所の古本屋にあるのをネットで見つけて買いに行く。店先の特価本の中に『中国の剪紙』という冊子があったので手に取ると、赤松俊子(丸木俊)が序文を書いていた。

中国版画が日本に渡り、仏画となり、護符となり、浮世絵となりました。抗日戦争の最中に日本の版画の手法と素材が中国に渡り、今日の中国版画の発展を助けています。終戦と同時にこの新しい中国版画は日本に渡り、日本の版画はさらに発展し、子供たちは生活版画の傑作を生みだしています。

アクション・サード・ロード

自由芸術大学ということだし、やはりヨーゼフ・ボイスをやらないとと思っているが、「限界芸術論」よろしく、何冊か持っていた本を誰かにあげてしまっている。ギャルリー・ワタリの展覧会のパンフレット的な二冊の冊子が残っていただけだった。「Action Third Road」はボイスが自由国際大学設立時に出版されたとのこと、マニフェストだったのだろう。

…その行動は社会関係を形づくる永久に個人的、集合的、独創的なプロセス―生きた芸術作品としての社会のオーガニズムでなければならないのだ。

日本の古本屋を漁ろう。

1999展

 

1999年にSFCの学生たちと慶応大学湘南藤沢キャンパスで開催した展覧会「1999展」のフライヤー。フロッピーディスク付き! 中身を見るには押し入れの奥からPowerMac 8100を引っ張り出さないとならない。

『Seeds展』と自動販売機

片付けているといろいろと懐かしいものが出てくる。
昔やっていたNPOで開いた展覧会で、自動販売機を借りて設置したことがあった。2000年10月5日発行の業界紙、自販機レポート「Vend」に寄稿した文章があったので、紹介します。NPOの資料もまとまったものがあったので、順次紹介していきたいと思う。いろいろなひとを巻き込んで行っていた活動なので、時間を見つけてデータをネット上にアーカイブしておくことにしよう。いつか誰かが見つけてくれるだろう。

宮沢賢治と限界芸術

世間はお盆休みらしい。フリーターはみんなが休みの時に働く!

とはいえ、今日は労働的なことはやめて、散らかった机の上を片付けることにした。スピーカーを本棚の上に移して、100円ショップで買ってきた箱に本棚のCDを入れスピーカーのあった場所に置き、机の上以外に置き場のなかった本をCDのあった場所に並べた。
自由芸術大学の読書会で宮沢賢治を読んでいる。『ヒロシマノワール』著者の東琢磨さんが、SNSに示唆的なコメントを入れてくれていた。鶴見俊輔の『限界芸術論』に宮沢賢治の芸術論についての言及。本棚を探したけど『限界芸術論』は無かった。以前、福生に住んでいた時、小旅行がてらだろう、よく人が遊びに来た。飼っていた犬と猫に会いに来ていたのかもしれない。話していて、自分が持っている本にその時の話の内容があるときなど、すぐに本をあげていた。みんなはその本をちゃんと読んだのだろうか?多分、それほど読んでないと思う。で、そういう時に『限界芸術論』もあげてしまったのだろう。持っていたはずの本が読みたいときに見つからない。よくあることだ。近所の古本屋に探しに行く。『限界芸術論』は無かったが、町田市国際版画美術館『版画|80年の軌跡』上下巻、美術手帖『イスラームのかたち』、菅谷規矩『宮沢賢治序説』、そして、小倉利丸『カルチャー・クラッシュ』を買う。全部で1300円+消費税也。明日は阿佐ヶ谷の古本屋に行こう。