異邦人とボヘミアン

むかし、プログレッシブロックの歌詞の和訳を読んでは、その意味を探ろうとしていた頃があった。シンコーミュージックから出ていた『ピンクフロイド詩集』は宮沢賢治や中原中也の詩集と同じぐらい精読した。そして、いまやボブディランがノーベル文学賞をもらう時代だ。ハードロックの歌詞は特に気にしたことはなく、ボーカルは楽器の一つぐらいに考えていた。去年、映画が大ヒットしたクイーンだが、テレビから流れる『ボヘミアン・ラプソディー』を聞いていて、ふと気づく。今さらどうでもいいことだけど、カミュの影響があるのではないかと。『異邦人』のあの有名な書き出しは「きょう、ママンが死んだ。」だ。主人公ムルソーは隣人のトラブルに巻き込まれ、アラビア人を射殺してしまう。裁判で殺害の動機を聞かれ「自分の滑稽さを承知しつつ、それは太陽のせいだ、と言った。」『ボヘミアン・ラプソディー』でもピストルで人を殺したとママに告白している。そして、地球が動くのは「太陽のせい」だと言ったのはガリレオではなかったか。『ボヘミアン・ラプソディー』の歌詞の最後のニヒリズムはどうだろう「僕にはどうでもいいんだ、どうせ風は吹くのだから」。それに比べて『異邦人』の最後の一文は「この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった。」カミュは不条理の中でも決して絶望していない。「私が自由を学んだのはマルクスのなかではなかった。私は自由を、たしかに貧困の中で学んだ。」カミュ『時事論集1』