広島の現在と〈抵抗としての文化〉――政治、芸術、大衆文化

芸術と社会に関する本を声に出して読み合い、理解を深める自由芸術大学での読書会。現在、アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』を読んでいる。次に読む本を探していた時、目に留まったのは、柿木伸之 編『広島の現在と〈抵抗としての文化〉――政治、芸術、大衆文化』。この本の元となるシンポジウムの基調講演を行った東琢磨さんから、2013年のカルチュラル・タイフーンで直接購入したのだが、当時は広島は自分の手に余ると、ざっと流し読みしただけだった。改めて目を通すと、今現在に繋がる議論がなされていることに気づいた。広島は遍在していたのだ。2020年の読書会で読むには最適な本だと思った。3月頃からは読み始められるだろう。

崩れ落ちかけた世界の底から立ち上がろうとするディオニュソス。この陶酔と熱狂の神は、石化し、世界とともに瓦礫と化しつつあるわが身を切り裂きながら、引き抜いた葡萄の樹を握りしめて、何ものにも縛られることのない生を渇望しているように見える。この絵が描かれたのは一九三六年のことという。この年は、スペインの内戦が始まった年であり、翌年にはゲルニカの街が焦土と化している。同じ頃、人種主義的な政策とともに文化統制を推し進めつつあったナチス・ドイツは、みずからの手先がゲルニカを無差別爆撃した同じ年に「退廃芸術展」を行って、多くの芸術家を社会的に抹殺したのだった。マッソンのディオニュソス像は、そうした危機を予感しながら、そして危機を前にしてなお、ニーチェの「超人」のように、生きることに対し、その過酷さも含めて何一つ差し引くことなく「ディオニュソス的に然りと言う」ことへ向けて描かれているのではないだろうか。
柿木伸之 編『広島の現在と〈抵抗としての文化〉――政治、芸術、大衆文化』生の肯定としての文化を想起し、想像し、創造するために――序にかえて