民衆芸術運動(25)

山本鼎は東京美術学校在学中の明治三七(一九〇四)年七月、歌人与謝野鉄幹が主宰する文芸雑誌『明星』に「漁夫」を発表する。すでに挿絵や批評を『明星』で発表していた紫潤会同人石井柏亭が「十六日 友人山本鼎君木口彫刻と絵画の素養とを以て画家的木版を作る。刀は乃ち筆なり。本号に挿したるのも是れ。」と同誌で紹介する。鼎が木版工房で学んだ、西洋から印刷技術として輸入された小口木版と、ドイツ表現主義やエドヴァルト・ムンクの木版画にみられる丸刀や三角刀の彫跡を活かし、漁夫の生活を表現する自然主義・リアリズム的な佳作だ。この版画はそれまでの浮世絵や、印刷技術としての版画にみられるような分業・工業性を排するため、自画・自刻・自擦により絵画同様の美術作品とする創作版画の礎を築いた。同年九月号の『明星』には与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」が発表されている。日露戦争(一九〇四年二月~一九〇五年九月)の最中の出来事である。

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