うさぎパラダイス

広島アビエルトで行われた「芝居小組公演【荒屋敷散楽】牡蠣殻ステップ」の舞台美術の手伝いで1週間、広島に滞在した。公演も盛況のうちに無事に楽日を迎え、翌日の早朝、三島の忠海港へ向かう。港の切符売り場にはうさぎのグッズが並んでいる。

小さな客船で大久野島に渡った。月曜日なので観光客もまばらだ。少し歩くとうさぎが駆け寄ってくる。ここはうさぎの楽園なのだ。戦後に野生化したうさぎが繁殖している。なぜうさぎが繁殖したのかには諸説あるようだが、現在、この周囲約4キロの小さな島に900羽以上のうさぎが住み着いているそうだ。

近隣住民が「多苦之島」と呼んだ時期もあるこの島では、かつて兵器としての毒ガス製造が行われていた。桟橋から10分ほど歩くと、レンガ造りの「毒ガス資料館」がある。国際条約で禁止されていた毒ガスを製造し、台湾や中国本土で使用した経緯などが、資料とともに簡単に紹介されている。

資料館を出て、5分ほど歩くとリゾートらしいホテルがある。戦後、占領軍に接収されていた島は、返還後に国民休暇村として開発された。ホテルの前の芝生の広場はうさぎによって、集中砲火をうけたように穴だらけになっている。

ホテルを過ぎると、毒ガス工場だった頃の遺構が、荒れ果てたテニスコートとともに目に入る。多くの遺構やそこへ向かう道が立入禁止になっていた。島を一周して桟橋に近づいたあたりで大きな遺構があった。毒ガス精製のための電力を供給していた発電所跡だ。建物の中に入り写真を撮った。建物を出たあとに立入禁止の看板を見つけたが、もう仕方がない。桟橋を過ぎてホテルに行き、日帰り温泉に入った。

晴れた日で、久しぶりに瀬戸内の夕焼けを見たかったが、綺麗事にしてはいけないと思う。この島は戦争犯罪の記憶を唯一残す、日本のアウシュビッツなのだから。忠海港につく頃には、空が赤く燃え始めていた。

写真について(2)

最近、物忘れが激しい。1983年に観た日本初公開の映画「ジュ・テーム…」がセルジュ・ゲンズブール監督、ジェーン・バーキン主演だったことさえ忘れていた。その頃の自分にとってはとても不思議な映画だった。ごみの舞うゴミ捨て場や、鉄さび色の水道水に満たされたバスタブが何故かきれいに思えた。今年はセルジュ・ゲンズブール没後30年で、日本でも「4K完全無修正版」リバイバル公開されていました。

好きな写真家の事を考えていて、忘れてしまっていることもあるかもしれないと、古い本や雑誌を引っ張り出して見てみた。綺麗だったり、面白いと思ったり、感服する写真はたくさんあるけれど、好きとは言い難い。絵画には好きな作家や作品もあるので、その方向に進んだのだと思います。

調べている中で、これは!と思った写真がありました。ソール・ライター。2013年に89歳で亡くなった写真家で、はじめて日本で紹介されたのが、没後4年も経った2017年。かつてはファッション写真家として活躍していましたが、つまらなくなってやめて、その後、自分の好きな写真を撮り続けました。その写真には、現代社会の日常に潜在している「芸術=神話」を見事に写しだされていました。

写真について(1)

「その中央にヨナは実に細かい文字で、やっと判読出来る一語を書き残していた。が、その言葉は、Solitaire(孤独)と読んだらいいのか、Solidaire(連帯)と読んだらいいのか、分からなかった(アルベール・カミュ『ヨナ』)」奈良原一高写真集『王国』より

 

ある女性に好きな写真家は誰かと聞かれて、奈良原一高と答えたのですが、よく考えてみると、本当に奈良原一高が好きなのかどうか。はじめて「写真」を「芸術」として認識したのは、確かに奈良原一高の写真でした。出版された当時に『昭和写真全仕事9』を購入して、これまで古本屋に売る事もなく、たまに開いています。

新聞/雑誌の報道、グラビアは写真を使ったデザインだ。デザインといえば、レコード・ジャケットは未知の世界への入り口だった。レッド・ツェッペリンやピンクフロイドのジャケットをデザインしたヒプノシスの斬新な世界に、特に惹かれた。

それでは「写真」を見たのはいつかと思い出すと、プログレッシヴ・ジャズロック・バンド「ソフトマシーン」の「Alive & Well: Recorded in Paris」の裏ジャケだったと思う。買ったばかりのレコードに針を落とし、録音スタジオの雑然とした机の上を写しただけの写真をずっと眺めていました。

雑然といえば、荒木経惟や森山大道、写真家と言えるかどうか分かりませんが、藤原新也のアジアの写真や都築響一の80年代の東京の部屋の写真集を思い出します。そして現在、街から猥雑なものやゴミは不可視化され、あらゆる表現に満たされ混沌を極めていた都会はきれいごとになってしまった。

万世橋架道橋

秋葉原から万世橋を渡った(鉄道)架道橋の橋げたのレンガにペンキで書かれた、このはがれかけたサインはどうしても必要なものなのだろうか。すこし調べてみると、この万世橋架道橋は明治45年(1912)に作られたものらしい。JRでも国鉄でもなく、甲武鉄道建築とのこと。もともとは万世橋駅があったらしい。その頃から、何度も塗り替えられているサインなのかもと思うと、国有化されてしまった甲武鉄道の意地のようなものも感じた。

MINAMATA

ユージン・スミスのドキュメンタリードラマ『MINAMATA』がやっと公開されるそうだ。主演のジョニー・デップのゴシップのせいで公開が遅れていたとのこと。それはさておき、スーザン・ソンタグが『写真論』のなかでユージン・スミスについて少し触れているので、紹介しておく。

住民の大部分が水銀中毒で身体障害をきたし、徐々に死に近づいているという日本の水俣の漁村で、ユージン・スミスが一九六〇年代の終わりに撮った写真は、それらが私たちの憤りをかきたてる苦悩を記録しているから、私たちを感動させもするし、またそれらがシュルレアリストの美の基準にかなう、苦悩の優れた写真であるから私たちを遠ざけもするのである。スミスが撮った、母親の膝の上で身をよじる瀕死の若者の写真は、アルトーが現代のドラマトゥルギーの真の主題として求める、ペストの犠牲者にあふれた世界の、一枚のピエタである。実際、一連の写真はそっくりアルトーの残酷演劇の映像になるようなものである。

世界の終わり

いつもは子どもたちがはしゃぎ、老人はベンチで池を眺めている夏の終わりの妙正寺公園の8月30日の午後。誰もいない公園に世界の終わりを感じた。アクション映画のような徹底的な破壊ではなく、世界は静かに終わるのだろう。子どもの頃にテレビでやっていた欧米の映画を覚えている。第3次世界大戦によって人類は滅亡し、たった三人だけが生き残る。若い二人の男と一人の女。その女を奪い合う戦いが始まる。それは第4次世界大戦だ。「第4次世界大戦」というタイトルだったと思うが、ネットで調べても見つからない。

監獄と檸檬

大正から昭和にかけて、多く思想・政治犯を収監したという中野(豊多摩)刑務所。政治犯といえば、大正時代の爆弾テロや1970年代の爆弾闘争を思い起こす。最近は日本で爆弾のニュースを見ることは無いし、今世紀に入り、あのMachintoshでさえ爆弾を捨て去った。1983年に中野刑務所は閉鎖されて、今は平和の森公園になっている。東京オリンピックの話が出たころに、運動公園にする計画が立ち上がり、二万本近くの樹木を伐採して、競技用トラックや体育館を作り始めた。先日、寄ってみるとすでに競技用トラックも体育館も完成していた。公園がスポーツによって乗っ取られたのだ。体育館には「キリンレモン スポーツセンター」の看板が。レモンといえば梶井基次郎の『檸檬』ここでも〔黄金色に輝く恐ろしい〕爆弾だ。唯一残されているレンガ造りの中野刑務所正門にカメラをむけたら、自転車に乗った女性が目の前に停まって動かない。スマホを見ているだけかもしれないが、テロリズムを予感した。

Khodaa Bloom

若いころに自転車とかで遠出するような、自分探しの旅をしたことはない。15年ほど乗っていたママチャリが変な音を出し始めた。そろそろ買い替えの時期だと思い、自転車を調べていて、クロスバイクとかにしたら、行動半径も広がると考えた。20キロ程度なら楽勝とのこと。荻窪から半径20キロを調べると、東は亀戸、西は立川まで行ける計算だ。早速、近所の自転車屋に行って、安くて良さそうなものを探すと、Khodaa Bloomという日本のメーカーが作っている入門車が三万円台であったので購入する。ママチャリさん、長い間ありがとう。24段ギアなんて乗ったことがない。とりあえず慣れるために10キロ程度走ってみようと、地図を見ていたら、荒川が大体13キロと案外近いことに気づいた。荒川なんて夢の島あたりの遠い河だとばかり思っていたが、秩父の長瀞も荒川だったと思い出す。ということで「彩湖」というヒッチコックの映画のような場所を目的地にした。環八から笹目通りに入って、高島平のあたりで荒川に向かう。電車で行くと随分遠回りさせられていた、マルセル・デュシャン「泉」のレプリカがある板橋区立美術館も近い。荒川の土手に上がってあたりを見渡す。多摩川だと山とか起伏があって「風景」になるのだが、埼玉らしい色気のない見晴らしだ。対岸に渡る橋を探しながら、荒川サイクリングロードを流す。土手やらグランドやらの草刈りをしていて、草の強いにおいがする。秋ヶ瀬橋を渡り彩湖へ。この調整池も色気が無い。途中でおじさんたちが模型のヨットレースをしていた。カウントダウンがはじまり、スタートしたはずなのだが、どのヨットもほとんど動かない。風があまりなかったからかどうか分からないが、面白そうではなかったので、ふたたび土手にあがると、河川敷に数軒のムラが出来ていた。里山的に整備されていて、小さな畑もある。増水は心配だが、人間はそうやって、自然と闘い、共存しながら生きてきたことを思う。河川敷の隣は整備されたゴルフ練習場だった。

至高者

この機会に、手を付けられていなかったモーリス・ブランショ『至高者』も読む。いいのか悪いのか分からないが、篠沢秀夫の翻訳が読みにくい。国家とか法とかの話のようですが、伏線として疫病の話も出てくる。ワクチンを打っていないせいで警察にぼこぼこにされる場面とか。疫病が国家とか法とかをむき出しにしてしまうのかもしれない。

基底材を猛り狂わせる

その150ページほどの本を、いつに手に入れたのかは分からないが、『基底材を猛り狂わせる』にいつかは挑戦しなくてはならないと思っていた。昨日、ふと手にとってめくったところ、今のなのではないかという気がした。ジャック・デリダのアントナン・アルトー論なのだが、昨日、9月4日はアルトーの誕生日だった。「描くことしかできない絵画」を描くことで超えるには《基底材》について深く考えなければならない。「絵」を描かないことで、絵画を超えたところで、それは何ものでもないのだ。基底材は支持体(紙や画布や板)のことだろうと思う。ジャック・デリダにとっての基底材とは「言語」なのだが、それが話をややっこしくしている。しかし文章なのだからそこから逃れられるわけもない。さらには「基底材と呼ばれるものが私を裏切った」というアルトーのデッサンに添えられた文章を起点にしていて、敗北は明らかだ。基底材を猛り狂わせるままにしておく他ないのだが、「おわかりか………」

基底材とはこの説明の場、詳細な説明の場、神の性的不器用さとの言い争い、ないし激論の場なのである。戦闘の場、決闘場、地面、寝台、層〔=婚姻の床〕、さらには墓――同時にこれらすべてなのであり、そこにおいて人は出産し、堕胎し、あるいは死亡する。生誕と死、土着化と堕胎がそこでは同時に起こりうる。基底材は下方にある、ないし広がっている、と言うだけでは十分ではない。幾つかの下部の間で戦争が生じるのである。