映画『怒り』

『怒り』という映画をNetflixで観る。イギリス人女性殺害犯市橋達也の逃走行に着想を得ているようだが、テーマは「人を信じること」。何もできないことに対する「怒り」と絡み合い、三つの物語がひとつの事実を浮き彫りにしてゆく。それは沖縄の怒りだ。

『横道世之介』『さよなら渓谷』などの原作者・吉田修一のミステリー小説を、『悪人』でタッグを組んだ李相日監督が映画化。現場に「怒」という血文字が残った未解決殺人事件から1年後の千葉、東京、沖縄を舞台に三つのストーリーが紡がれる群像劇で、前歴不詳の3人の男と出会った人々がその正体をめぐり、疑念と信頼のはざまで揺れる様子を描く。出演には渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、宮崎あおい、妻夫木聡など日本映画界を代表する豪華キャストが集結。
――シネマトゥデイより

2016年公開
原作:吉田修一
監督・脚本:李相日
製作:「怒り」製作委員会

そのことを知っているかどうかは重要ではない

ジョルジュ・バタイユの経済論『呪われた部分』に入れなかった草稿をまとめた『呪われた部分 有用性の限界』をながら読みしている。その本のなかで「喫煙」について書かれたものがあった。「喫煙」について常々感じていたことが言語化されていたので紹介したい。最近はバタイユ的なことを口にすると怪訝な顔をされてしまう。道徳的な倫理観、エートスというものが世界を覆っているのだ。

 現代の社会で浪費がほとんどなくなっているというのは、それほど確実なことではない。その反論として、煙草という無駄な消費をあげることができるだろう。考えてみると、喫煙というのは奇妙なものだ。煙草はとても普及していて、わたしたちの生活のバランスをとるためには、煙草は重要な役割を果たしている。不況のときにも、煙草の供給は真面目に配慮されるくらいだ(少なくともそうみえる)。煙草は「有用な」浪費に近い特別な地位を占めているのである。
 しかしこれほど俗っぽい浪費はないし、これほど時間つぶしと結びついている浪費もない。ごく貧しい人も煙草をふかす。ただしいまこの瞬間にも、煙草の値段はかなり高い。どれだけの人々が配給された煙草を、不足しがちな食品と交換しているだろう。そして食材がないために、貧しい人々はますますみすぼらしくなるのだ。あらゆる贅沢な浪費のうちで、煙草の浪費だけは、ほとんどすべての人の財布にかかわる事柄だ。ある意味では公共の喫煙室は、祝祭に劣らず共同的なものなのだ。
 ただ、ある違いがある。祝祭はすべての人が同じように参加する。ところが煙草は富む者と貧しい者の間でうまく配分されていない。多くの喫煙者は貧窮していて、特権のある人々だけが際限なく喫煙できるのだ。他方で、祝祭は特定の時間だけに制限されるが、煙草は朝から晩まで、いつでもふかすことができる。そうした散漫さのために、喫煙はだれにでもできるものとなり、そこに意味が生まれないのだ。喫煙する多くの人が、そのことをいかに認識していないかは、驚くほどだ。これほど把握しにくい営みはない。
 喫煙という祝祭は、人々に祝祭が行われているという意識を持続させる。しかしこの用途には、隠された魔術が存在する。喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から開放される。喫煙することで人は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ。