山頭火を生きる:四月三十日

久しぶりにようねむれた、山頭火は其中庵でなければ落ちつけないのだ、こゝならば生死去来がおのづからにして生死去来だ、ありがたし、かたじけなし。
降つたり照つたり、雑草、雑草。
起きるより掃除(樹明君が掃除してくれてはゐたが)、数十日間の塵を払ふ。
学校に樹明君を訪ねる、君は私が途中、どこかに下車したと思つて、昨日も白船君と交渉したさうな、感謝々々。
街へ出かけて買物、米、炭、味噌、等々(うれしいことにはそれらを買ふだけのゲルトは残つてゐた)。
御飯を炊き味噌汁を拵らへて、ゆう/\と食べる、あまり食べられないけれどおいしかつた。
つかれた、つかれた、……うれしい、うれしい。
とんぼがとまる、てふてふがとまる、……雲雀がなく蛙がとぶ、……たんぽぽ、たんぽぽ、きんぽうげ、きんぽうげ。……
柿若葉がうつくしい、食べたらおいしからう!
方々へ無事帰庵のハガキを書く、身心がぼーつとしてまとまらない、気永日永に養生する外ない。
午後、樹明君来庵、酒と肉とを持つて、――もう酒が飲めるのだからありがたい。
樹明君を送つてそこらまで、何と赤い月がのぼつた。
蛙のコーラス、しづかな一人としてゆうぜんと月を観る。
今夜はすこし寝苦しかつた、歩きすぎたからだらう、飲みすぎたからでもあらうよ。
・いかにぺんぺん草のひよろながく実をむすんだ
・藪かげ藪蘭のひらいてはしぼみ
みんな去んでしまへば赤い月
改作二句
乞ひあるく道がつゞいて春めいてきた
藪かげほつと藪蘭の咲いてゐた
木の実ころころつながれてゐる犬へ
まんぢゆう、ふるさとから子が持つてきてくれた
雑草やはつらつとして踏みわける

山頭火を生きる:四月廿九日

四月廿九日、暮れて八時過ぎ、やうやく小郡に着いた、いろ/\の都合で時間がおくれたから、樹明君も出迎へてゐない、労れた足をひきずつて、弱いからだを歩かせて、庵に辿りついた、夜目にも雑草風景のすばらしさが見える。……
風鈴が鳴る、梟が啼く、やれ/\戻つた、戻つた、風は吹いてもさびしうない、一人でも気楽だ、身心がやつと落ちついた。
すぐ寝床をのべて寝た、ぐつすりとゆつくりと寝た!
ふるさとはすつかり葉桜のまぶしさ
・やつと戻つてきてうちの水音
・わらやしづくするうちにもどつてる
・雑草、気永日永に寝てゐませう(病中)

山頭火を生きる:四月廿八日

大死一番 天地一枚

莫妄想

無常迅速
時不待人
光陰可惜
慎勿放逸

裁断前念後念

大事了畢
身心脱落
断命根
己平究明
大我爆発
三昧発得

天地同根 万物一体

山はしづかにして性を養ひ、水は動いて情をなぐさむ
諸行無常、無常迅速、
諸法常示寂滅相、
眼前景致、口頭語。

何もなくても版画はできる

正しい技法というものはない

少なくとも凸版形式の版画においては、その正しいつくり方などということを考えてみるのは、まず無意味なことである。
これは単にその外様性からのみいうのではなく、限られた個々の版種においても、その正しい技法などというものが、決して一つのルールとして決められる筈がないということである。凹版、平版の中には、いかんともしがたい化学的法則のあずかるプロセスもあって、たしかに薬品の使い方などある意味では正しい技法というものも必要ということになろう。しかし、それすらもある一つのプロセスを正しい技法の唯一の存在として理解するより、技術というものは実はその人の側にのみその時々に存在し、まったくそれは自由なものであるという理解のほうがはるかに重要なことではないだろうか。

技法は本来単純なものである

――しかしながら、現実に見る版画技術というものはひどく複雑な様相を呈している。
たとえば、日本の木版系の専門作家の中から適当に十人をとりだしてみよう。それがすぐれた作家であればそこにはすくなくとも十の異なったプロセスがある。それぞれにまったく自分勝手なものであるのに、人は驚くであろう。

これは、それぞれの作家が、個々の表現にもっとも適した効果を。自分なりにもっともたやすい手法によって求め、かつ多くの場合みずからそれを見出すということによって制作しているのが実状だからであろう。その一つがかなり面倒な手順を経るものであったとしても、それがみずから求めたものというところから、その意味するところはきわめて単純なものである筈だ。一見めちゃくちゃに見えても。それはその人にとって実に明快な意味をもった技法なのである。
それが、伝統的な木版画技術によったいわば古風なものであっても、みずからの肉体に墨を塗って紙面に押しあてたり、路上に拡げてマンホールの蓋を摺り取るといった新奇なものでも何でもかまわない。要するに、版画においても絵画としての表現がまず存在するのであって、それに版というものの効果と機能がプラスされること。そしてその表現内容と表現効果がもっとも単純にストレートに結びつくとき、そこに単なるプロセスとしてでなく、本来の技法というものの存在があるといってもよいのではなかろうか。

だから、正しい手法はない――ということはいいかえれば、技法とはまったく自由なものであり、その人その時に応じてすべてが正しい技法であり得るということ。技法は単純である――ということは、絵画としての版画技法はまたあらゆる可能性(プロセスとしては繁雑なものであってもいい)をもつべきものであるということなのである。
何もなくても版画はできる――ということも、したがって何をつかって、何をどうやっても(特別な用具材料がなくても)版形式の絵画的表現ができるということなのである。

『版画の技法』 凸版による技法 吉田穂高 美術出版社 昭和39年

宮沢賢治とアナキズム

アナキズムの美学 破壊と構築:絶えざる美の奔流」を読む。アナキズムに関する本はほとんど読んだことがなかったが、宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」とほぼ同じことが書いてあった。上田哲やマロリ・フロムによると、室伏高信の著作から賢治は多くのアイデアを得ている。室伏高信はトルストイ、オスカー・ワイルド、ウィリアム・モリスなど、「アナキズムの美学」で取り上げられているものと同じ思想も引用して「文明の没落」や「土に還る」を著しているようだ。少なくとも美に関して宮沢賢治はアナキストだったのだと思う。

DIYパンク版画コレクティブと革命的版画ワークショップ

2014年4月3日(木)午後7時から、新宿にあるインフォショップ「IRREGULAR RHYTHM ASYLUM」で行われた『アドバスターズ』のクリエイティヴ・ディレクター「ペドロ・イノウエ」さんのトークイベントの後、打ち上げの格安中華料理屋でIRREGULAR RHYTHM ASYLUMの成田さんから、マレーシアの版画アーティスト集団の活動が面白いと聞く。現地に赴いたRisaさんの探訪紀を読むと、なるほど面白い。その作品は、日本における戦後プロレタリア美術運動の下部構造としてのサークル運動的な民衆版画ではなく、パンクロックのDIY精神を引き継ぎながら、土着の文化とも繋がりを持ち続ける作品だ。都市ではなく、田舎町を拠点にしているそのDIY版画アーティスト集団の名前は、パンクロック・スゥラップ(Pangrok Sulap)。各地でワークショップを開きながら、DIY精神を伝えているようです。Facebookページに掲載されている写真やビデオを見ると、絵として紙に刷るだけではなく、布やTシャツ、ノートの表紙などにも刷っている。また、その刷り方に特徴があり、バレンやプレス機で刷るのではなく、版木や紙の上に直接乗っかって、足踏みしたり、時にはダンスしながら刷っています。これぞDIYパンク! そこで、東京でも版画ワークショップをやることにしました。

2014年5月4日『革命的版画ワークショップ』

workshop民衆の、民衆のための、民衆による版画運動の復興。かつて日本でも興隆していた民衆版画運動、そこにはプロパガンダ以上のものがあったはずです。ヒューマニズム、コミュニティー、ネットワーク。そして、美術と政治の蜜月。

なぜ木版画なのか。民衆が芸術を創りだすこと。その道を用意してくれるのが版画、特に、義務教育で幾度となく制作している、どんな人にも身近な木版画です。誰もが知っているベニア板やゴム/リノリウム板に、誰もが知っている彫刻刀で版を作ります。

なぜ版画なのか。水彩画や油彩画といった、いわゆる絵画との違いは、「刷り」という工程にあります。その工程を経ることによって、作品は作者本人から切り離され、ひとつの芸術作品として自律することでしょう。

また、転写版画は、版を作っている間にその完成を知ることは出来ません。常にその作品を、裏側から、または裏側を見ながら制作することになります。物事の見方、感じ方が変化するだけで、世界は違って見えるはずです。それを自分の体験とすること。そして、そこから世界を形作っていく事。これこそが「革命」なのです。

日時:2014年5月4日午後3時〜
場所:IRREGULAR RHYTHM ASYLUM
新宿区新宿1-30-12-302|03-3352-6916|irregular.sanpal.co.jp
参加費:無料
お題:参加者みんなでIRREGULAR RHYTHM ASYLUMのポスターを作ります。
制作サポート:上岡誠二(artNOMAD)
※手ぶらで大丈夫ですが、愛用の木版画道具などお持ちでしたら、持参してください。
※油性インクを使って刷ります。それほど汚れることはありませんが、汚れても大丈夫な格好、または実験で使用するような割烹着、エプロンをお持ちください。また、石油系の匂いが苦手な方はマスクをご用意ください。