山頭火を生きる:三月八日

降つても照つても、晴れても曇つても、風が吹いても、春が来てゐることに間違はない。
日がさすと、雲雀が出てきてあるいてゐる、私も出てあるく。
緑平老、春風春水、一時到!
新酒二合の元気で、街へ山へ。
酔はねばさびしいし、酔へばこまるし。
歩いてゐると、足がしぜんに山の方へ向く、私は本能的に山が好きだ。

・遠山の雪のひかるや旅立つとする
・影も春めいた草鞋をはきかへる
・春がきてゐる土を掘る墓穴
 これだけの質草はあつてうどんと酒
・みちはいつしか咲いてゐるものがちらほら

山頭火を生きる:三月七日

晴、春風しゆう/\だつたが、午後は曇つて降つた、しかし昨日の雪のとけるといつしよに冬はいつてしまつたらしい。
草が萠えだした、虫も這ひだした、私も歩きださう。
一片の音信が、彼と彼女と私とをして泣かしたり笑はしたりする、どうにもならない私たちではあるが。
街へ出て、米すこしばかり手に入れる、餅ばかりでは困る。
心臓がわるい、心臓はいのちだ、多分、それは私にとつて致命的なものだらう。
どうせ畳の上では徃生のできない山頭火ですね、と私は時々自問自答する、それが私の性情で、そして私の宿命かも知れない!

・晴れて風ふく春がやつてきた風で
・日がのぼれば見わたせばどの木も春のしづくして
・む(マヽ)のむしもしづくする春がきたぞな
・木の実ころ/\ころげてくる足もと
・豚の子のなくも春風の小屋で
・まがればお地蔵さまのたんぽぽさいた

山頭火を生きる:三月六日

雪、雪、寒い、寒い。
母の祥月命日、涙なしには母の事は考へられない。
終日独居。
友はありがたいかな、私は親子肉縁のゆかりはうすいが、友のよしみはあつい、うれしいかな。
忘れられた酒、それを台所の片隅から見出した、いつこゝにしまつてゐたのか、すつかり忘れてゐた、老を感じた、その少量の酒をすゝりながら。……
陶然として、悠然として酔ふた、そして寝た、寝た、宵の七時から朝の七時まで寝つゞけた。

・雪あした、すこしおくれて郵便やさん最初の足跡つけて来た
・死ねる薬はふところにある日向ぼつこ
・水のんで寝てをれば鴉なく
・売れない植木の八ツ手の花
・寒い雨がやぶれた心臓の音

山頭火を生きる:三月三日

さむいけれどうらゝかである、餅と酒と豆腐と。
樹明君を徃訪して、帰庵して、御馳走をこしらへて待つ、待ちきれなくて街をあるく、帰つてみれば、樹明君はちやんと来てゐて、御馳走を食べてゐる、さしつさゝれつ、とろとろとなる、街へ出てどろ/\となつて別れる。
・酔ひざめの春の霜
・藪かげほつと水仙が咲いてゐるのも
みんな酔うてシクラメンの赤いの白いの
・風がふくひとりゆく山に入るみちで
・すげなくかへしたが、うしろすがたが、春の雪ふる(樹明に)
・洗つても年とつた手のよごれ
・心あらためて土を掘る

粉川哲夫著 『映画のウトピア』 2013 芸術新聞社

粉川さんの久々の単著『映画のウトピア』を読んだ。映画(メディア)は現実であることがよくわかる。ドキュメンタリー映画だけが現実に関わっているのではなく、ドラマ映画も現実の一部なのだ。

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ドキュメンタリーからポルノまで、様々な映画を批評しながら、そこでは、コラージュ/モンタージュ/異化/カットアップ/カットゥン・ミックスが行われ、各章を1本の映画として読む(みる)こともできる。

『映画亡命者の日記』
『アメリカ映画の主流と支流』
『シネマ・シガレッタ』
『映画的記憶の再配置』
『孤独者のテレパシー』
『一期一会』

これまで、あまり映画を観てこなかったが、観たい映画がたくさん生まれた。以下に本を読んで、観たくなった(もう一度観たくなった)映画リストを羅列しておきます。

山頭火を生きる:三月二日

晴、春寒、不自由不愉快。
我儘な猟人が朝からパン/\うつ、気の毒な小鳥たちよ。
何事も積悪の報い、甘受いたしませう。
孤独、沈黙、句作。
めづらしや女性来訪、F屋のおばさんとちいちやん、水仙もらひに寄つたのです、紅茶を御馳走する。
夜、冬村君来庵、お土産として水餅どつさり。
つゞいて樹明来、おとなしくすぐ帰宅。
さらにTさんがやつてくる、酒を持つて、――おそかりし、おそかりし。
月のあかるさ、一人のよろしさを味ふ。
・風が明けてくる梅は満開
いつもつながれてほえる犬へ春の雪
待つても来ない木の葉がさわがしいゆふべとなつた
・ちかみちは夕ざれの落葉ふめば鳴る
さむいゆふべで、もどるほかないわたくしで(樹明君に)
犬がほえる鳥のなく草は枯れてゐる
・水底ふかくも暮れのこる木の枯れてゐる