映画『怒り』

『怒り』という映画をNetflixで観る。イギリス人女性殺害犯市橋達也の逃走行に着想を得ているようだが、テーマは「人を信じること」。何もできないことに対する「怒り」と絡み合い、三つの物語がひとつの事実を浮き彫りにしてゆく。それは沖縄の怒りだ。

『横道世之介』『さよなら渓谷』などの原作者・吉田修一のミステリー小説を、『悪人』でタッグを組んだ李相日監督が映画化。現場に「怒」という血文字が残った未解決殺人事件から1年後の千葉、東京、沖縄を舞台に三つのストーリーが紡がれる群像劇で、前歴不詳の3人の男と出会った人々がその正体をめぐり、疑念と信頼のはざまで揺れる様子を描く。出演には渡辺謙、森山未來、松山ケンイチ、綾野剛、宮崎あおい、妻夫木聡など日本映画界を代表する豪華キャストが集結。
――シネマトゥデイより

2016年公開
原作:吉田修一
監督・脚本:李相日
製作:「怒り」製作委員会

南方熊楠生誕150周年記念企画展

バタバタしていて、ふと思い出したらまだ間に合う「南方熊楠生誕150周年記念企画展」3月4日(日)まで。
先日のゴッホの話でよく分からないと言われた「神話と共同体」についても熊楠の神社合祀反対運動から話せばわかりやすいかもしれないと思った。明治政府は延喜式神名帳に記載されていない神社をつぶして合祀したのだが、それは天皇家と関係の無い神話を殺し、国家からはみ出した共同体を破壊する行為だった……つづく。

かくのごとく神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心と愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。

神社合祀に関する意見
http://www.aozora.gr.jp/cards/000093/files/525_47860.html

ヒロシマ・モナムール

アラン・レネ監督、マルグリット・デュラス脚本『ヒロシマ・モナムール』
邦題は『二十四時間の情事』だが、1959年公開。そういった時代だったのだろう。
こんな重要な映画を見てなかったんだなと思う。
英語字幕ならWEBにあった。
https://vimeo.com/channels/868273/117987724

Elle : Tu n’as rien vu à Hiroshima. Rien.
君はヒロシマで何も見ていない 何も
Lui : J’ai tout vu. Tout.
私はすべてを見たわ すべてを

いま、デュラス的なものが絶対的に欠けているのではないだろうか。


概要(Wikipedia)

外部からやってきたフランス人という存在が、原爆をどこまで知ることができるのか? というアラン・レネ監督の想像から映画制作は始まった。人間が、現実を批判しながら自己の心の在りかを探求していく過程を、個人の内面にある戦争を背景に描いた作品である。

当初はカンヌ国際映画祭でフランスからの正式出品のはずだったが、1956年の『夜と霧』と同じく「時宜を得ない」との理由で却下され、コンクール非参加作品として特別上映された経緯がある。映画祭がこの作品については当時の米国の心証を、その前の『夜と霧』ではドイツの心証を、それぞれおもんばかったと言われた。ジョルジュ・サドゥールはこの作品を「時代を画する作品」と激賞し、「FILM辞典」でも「ヌーヴェル・ヴァーグの最も重要な作品」と評価した。

この作品は1959年度カンヌ国際映画祭国際映画批評家連盟賞と1960年度ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞を受賞している。

1979年セザール賞のフランス映画トーキー・ベスト・テンでは、史上第7位に選出された。

映画の全編(ヒロインの第二次世界大戦中の回想シーンを除く)のロケーションを1958年当時の広島市で行い、多くの市民が撮影に参加している。2人が情事にふける立町のホテル周辺や、フランス語で記載されたプラカードで反核平和を訴えるデモ行進を行っているシーンなど、多くの市民の姿が映し出されている。当時の広島駅、平和公園、広島平和記念資料館、新広島ホテル、広島赤十字・原爆病院、本通り商店街、原爆ドーム、太田川なども登場する。

映画の製作に、フランス側は『夜と霧』を製作したアルゴス・フィルム他、日本側は大映、そしてパテ・オーヴァーシーズがとりまとめた合作映画である。映画の題名は初期の企画段階では「ピカドン」だった。

魔法使いの弟子

2015年に出版されたジョルジュ・バタイユ『魔法使いの弟子』定価520円のその小冊子はバタイユと結核で死にゆく恋人「ロール」との愛の世界のエクリチュールだ。景文館書店から発行されたその表紙にはなぜかキリンジのスウィートソウルのPVのカットが使われている。キリンジのことは何も知らないし、なんとなく使ったのかとも思えるが、ゆっくり聞いてみたいと思う。

偶然の《恐ろしい》王国に背を向ける大衆のことを考えると、たちまち長い不安の中へ落ちてしまう。そうなるのはもう抗いがたい。じっさいこの大衆は、安全に確保された生が、そのまま妥当な計算と決断にだけ依存するようにと求めているのだ。恋人たちや賭博者たちは《希望と恐怖の炎》の中で燃えあがりたいと思っているのだが、そのような意欲を失った人々からは、あの《ただ死とのみ拮抗する》生は、遠く離れていく。人間の運命は、気まぐれな偶然が事を図るのを欲している。これとは逆に、人間の理性が偶然の豊かな繁殖に代えて差し出すものは、生きるべき冒険などではもうなくて、実存の諸困難へのむなしくて妥当な解決なのだ。何らかの合理的な目的に関わる行為は、奴隷のように耐え忍ばれた生活の必要性に向けて打ち出された答えでしかない。逆に、好運の魅惑的なイメージを追い求める行為こそ、唯一、炎のように生きる欲求に応えているのである。 ジョルジュ・バタイユ

オーヴェールの教会と麦畑

FAUでゴッホの話をするのに、墓参りに行った時のことも話そうかと、データを焼いたDVDの写真を探したが見つからない。オーヴェールの教会と麦畑の写真だけは残されていた。

ゴッホが描いた建物や風景には絵と解説のパネルが設置されている。
この麦畑の先にある小さな墓地にゴッホとテオの墓はある。 2003年の8月の夕方、カラスではなく鳩が飛んでいた。

 

同じフォルダにあったおまけの写真は、ポルトガルで会ったアーティストに、おみやげで持っていった越中ふんどしの付け方を教えているところ。 次の日には「俺を男にしてくれた!」と喜んでいた。いったい彼に何があったのだろう。

ゴッホと協同組合

少し前にも書いたが『ゴッホの手紙』は現在の活動の原点だ。ゴッホが勘違いして理想化してしまった、表徴の帝国「日本」。そしてゴッホが夢見た画家の《協同組合》。そんなものは日本には無かったのだよと、あの世のゴッホに伝えたい。しかし、芸術協同組合の可能性をいま考えることはできるだろう。来年の初春に自由芸術大学で《ゴッホと協同組合》についてのレクチャーを行おうと考えている。

 人びとは、ヴァン・ゴッホの精神的健康について云々するかも知れぬ。だが彼は、その生涯を通じて、片方の手を焼いただけだし、それ以外としては、或るとき、おのれの左の耳を切りとったにすぎないのだ、
 ところが彼の生きていた世界では、人びとは、毎日、緑色のソースで煮たヴァギナや、鞭で引っぱたいて泣きわめかせた赤ん坊の、
 母親の性器から出てきたところをつかまえたような赤ん坊の性器を喰っていた。
 これは、比喩ではない。全地上を通じて、大量に、毎日、くりかえされ、つちかわれている事実である。
 それにまた、このような主張は、いかにも気ちがいじみたものに見えるかも知れないが、現代の生活は、まさしくこんなふうにして続いているのだ。乱行、無政府状態、無秩序、錯乱、放埒、慢性の狂気、ブルジョワ的な無気力、精神異常(なぜなら、人間ではなく世界が異常なものになったのだ)、故意の悪行と、とてつもない偽善、すぐれた素性を示すいっさいのものにたいするけちくさい侮蔑、そういったものの作りなす古くさい雰囲気のなかで、
 最初の不正の遂行のうえに築きあげられた或る秩序全体の要求、
 そして最後に、組織化された罪、これらのものの作りあげる古臭い雰囲気のなかで続いているのだ。
 自体は悪質だ、なぜなら、病んだ意識は、このようなときには、おのれの病からぬけ出せぬことに、根本的な関心を抱いているからだ。
 かくして、いたんだ社会は、精神病学なるものを作りあげたのだが、それは、この社会にとってはなんとも具合の悪い予見力をそなえた、何人かの卓抜な千里眼的人物の探査からおのれを守るためである。

アントナン・アルトー『ヴァン・ゴッホ』序文より抜粋
 

心からご冥福をお祈り致します

12月16日「2017年度日本生協連資料室 土曜講座」で『原水禁署名運動の誕生』の著者、丸浜江里子さんが《戦前~戦後の城西消費組合の中心メンバーたちの生協活動》をテーマに講義をされる予定だった。

ひと月前、11月19日には自由芸術大学のレクチャー《戦後初の公選杉並区長―新居格から受け継ぐこと》で公益学を提唱されている小松隆二さんと新居格についての講義をお願いしていた。9月末に浜田山の喫茶店で直接お会いして打ち合わせを行った際には、自転車で来られるほどお元気だった。11月14日に病室からお電話をいただき、体調が良くないのでレクチャーに出られないとの連絡を受けた。12月16日の講義もお有りだし、無理しないように欠席していただいた。当日、電話を繋いで少しお話いただこうかとも考えたが、ご無理をさせてしまってはと、小松さんにお願いして丸浜さんの時間もお話いただいた。

12月7日に丸浜さんが亡くなられたとの連絡を受ける。突然の訃報で言葉にならない。
11日に行われた通夜でご焼香させていただいた。百人以上並んでいただろう、大勢の弔問客がいらしており、生前のご功績が偲ばれる。受付で、仕事関係者/運動関係者/一般の選択項目があった。少しの時間悩む。しいていえば、運動関係者なのだろうが、なぜか気が進まず「一般」に丸をつけた。

丸浜さんとはごく最近、日常の繋がりの中で出会うことになった。版画コレクティブA3BCが毎年出品している原爆の図丸木美術館で行われる「今日の反核反戦展」。実行委員会にも参加した関係で、年に数会通うようになった。はじめて原爆の図 第10部 《署名》を見た時から気になっていたのだ。杉並で展示されたことはないだろうし、そのために自分が動かなくてはならないのではないかと。

今年の春に自由芸術大学を立ち上げ、7月2日に「美術が繋ぐ広島・沖縄──原爆の図丸木美術館と佐喜眞美術館」と題したレクチャーを二つの美術館の学芸員の方に行っていただいた。そのレクチャーを機会に「杉並で署名を展示する会―準備会」を立ち上げる。少し前に、商店街の商店会の総会があった。議員に立候補したこともある商店会長に「展示する会」について相談すると、丸浜さんの著書『原水禁署名運動の誕生』を貸してくれた。表紙には原爆の図《署名》が使われていた。その深く広がりを持つご研究に感銘を受ける。

「杉並で署名を展示する会―準備会」は会議を続けていくうちに、来年が杉並区平和都市宣言30周年ということで、「杉並から平和の輪をつなぐ会準備会」となった。原爆の図《署名》の展示にとどまらず、六十年前の『原水禁署名運動』のように杉並から世界につながる運動が起きないかと考えている。いや、起きなければならない。丸木位里・丸木俊、そして丸浜さんの意思を継いで。

次回の「日本生協連資料室 土曜講座」は中止になるだろう。丸木美術館で行われる《ICANノーベル平和賞受賞記念・川崎哲講演会「核兵器禁止条約で変わる世界~日本はどうする~》に行くことにした。

丸浜江里子様のご逝去を悼み、心からご冥福をお祈り致します。

ひとり出版社《虹霓社》

メディアが教会や国家や資本に独占されていた時代は終わり、今や個人がISBN付きの書籍を発行できる時代になった。つげ義春公式グッズの製作販売などを行っている「虹霓社」から初出版された復刻本『杉並区長日記ー地方自治の先駆者・新居格』。自由芸術大学で出版記念レクチャー《戦後初の公選杉並区長―新居格から受け継ぐこと》を行うことにもなり、完成したばかりの本を贈っていただいた。
この本には、A3BCのZINEとして出した《民衆芸術論①『黒耀会——アナルコサンジカリズムと民衆芸術』》の貴重な参考文献『大正自由人物語―望月桂とその周辺』の著者小松隆二さんによる〈小伝〉の書き下ろしも収録されている。その中でこの本が出版される経緯に少し触れているので紹介したい。

 戦後になっても、新居を評価し、伝記でも書きたいと思う人は何人も出ている。遠藤斌氏や秋山清氏もその人たちであった。かくいう私も新居伝を書きたいと思いつつ、未だに果たしていない。
 そういったなかで、評伝完成を最初に成し遂げたのは和巻耿介であった。彼らしい評伝を徳島新聞に連載し、まとまった後にいくつかの新居の文章も添えて一冊の著書にしている。しかし、その後それに続く深い研究は出ていない。
 そんな時に、新居の復権を図り、『区長日記』を出版したいという青年が現れた。正直言って驚いた。しかも、新居の多くの著作の中で『区長日記』を選び出したのにも、さらに驚いた。タイトルは一見つまらなそうに見えるが、自由人あるいは普通のアナキストとしての新居が最も良く表現されているのは。『区長日記』であると、私も思いこんでいたからである。
 そんな経緯から、新居の復権への若い古屋淳二さんの挑戦に、私も立ち合うことになった。本書が広く読まれることを切に願う次第である。

小松隆二 「〈小伝〉“地方自治・地方行政の鑑”新居格の生涯と業績――典型的な自由人・アナキスト」 より

11月19日に行うFAUレクチャーでは、杉並の原水禁署名運動について研究する丸浜江里子さんとともに小松隆二さんにもレクチャーしていただくので、ぜひ多くの人に参加してもらいたい。

オーロラの碑

記念碑の由来

 昭和二十八年十一月に開設した杉並区立公民館においては、区民の教養向上や文化振興を図るため、各種の教養講座が開かれ、また、社会教育の拠点として、区民の自主的活動が行われてきました。
 これらの活動のなかでも、特筆されるものは、昭和二十九年三月ビキニ環礁水爆実験をきっかけとして、杉並区議会において水爆禁止の決議が議決されるとともに、同館を拠点として広範な区民の間で始まった原水爆署名運動であり、世界的な原水爆禁止運動の発祥の地と言われております。
 その公民館も老朽化により平成元年三月末日をもって廃館されましたが、その役割は杉並区社会教育センター(セシオン杉並)に発展的に継承されております。
 ここに、公民館の歴史をとどめるとともに、人類普遍の願いである永遠の平和を希求して記念碑を建立したものであります。

平成三年三月

東京都杉並区