民衆芸術運動(39)

山本鼎はロシアで観た「児童創造美術展」に影響され「児童自由画展覧会」を開いたのだが、なぜ”創造“美術展ではなく、”自由“画美術展としたのかを、大正九年八月の『中央公論』「自由画教育の要点」の中で説明している。

自由画という言葉を選んだのは、不自由画の存在に対照しての事である。云うまでもなく不自由画とは、模写を成績とする画の事であって、臨本―扮本―師伝等によって個性的表現が塞がれてしまう其不自由さを救おうとして案ぜられたものである。
 創造(Creation)という字が一般に解り易いものならば勿論それが良い。露西亜では自由と云わずに、児童創造展覧会と云って居るそうだ。――併し、吾が従来の図画教育に対する時、自由画という字はむしろ適切ではないか。自由が不自由に代わった時、創造が模写に代わった時、はじめて自由という言葉は勇退すべきであろう。

「自由」という言葉は議論を呼んだようだ。いまだに「自由」に対して拒否反応を起こす人は多い。図画教師は自由を放任とみなし鼎を悩ませたし、「自由画教育の要点」掲載の翌月にはおなじく『中央公論』に「山本鼎氏の自由画教育提唱に対する図画教育者側の抗議」として、その時点での教育者の視点からの批判もあった。批判や問題は多々あったが、自由画教育運動は全国に広がり、図画講師が教育者として、また学校として自由画教育を取り入れていった。
児童自由画展覧会第一回展後に立ち上げた「日本児童自由画協会」は翌年、北原白秋らも参加し「日本自由画教育協会」に改名、白秋のわらべうた唱歌や『赤い鳥』の児童文学改革や、土田杏村、金井正、山越脩三らの上田自由大学設立に端を発した自由大学運動につながっていく。

自由画教育をいち早く取り入れた学校に大正自由教育の先鋒「成城小学校」があった。成城小学校では創作版画も授業の一環として行われ、昭和六(一九三一)年、成城小学校の美術教師であった内山嘉吉が上海で書店を営んでいた兄完吉を訪れ、兄夫婦等に版画を教えていた時に、たまたま立ち寄った魯迅の依頼で美術学生に創作版画を指導し、中国革命の一端を担う「木刻運動」にもつながっていった。