民衆芸術運動(26)

東京美術学校を首席で卒業し、漫画家の北澤楽天が主宰する風刺漫画雑誌『東京パック』などに挿絵を描いていた山本鼎は、眼病のため学校を中退し大阪で療養生活をしていた石井柏亭が快癒したこともあり、柏亭を東京に呼び寄せ、学友だった森田恒友の三人を同人として、明治四〇(一九〇七)年、美術雑誌『方寸』を出版し、版画や評論などを掲載する。木版画の師匠であった桜井虎吉が新しい技術を導入し経営する「清和堂写真製版所」に印刷を依頼し、清和堂の仕事を請け負ったり、鼎自身が印刷を行うなどして、同人誌としては豪華な雑誌を安価に制作した。四年間で三五冊を出版した『方寸』周辺には多くの詩人・画家が集うことになる。第一巻第四号には、その頃の鼎の芸術と社会に関する考えが判る一文が載せられている。日露戦争後の軍国・帝国主義化が進み、国粋主義的な芸術を求める声が上がる中、東京大学文科の関係者で発行していた『帝国文学』に掲載された国粋芸術を勧めるエッセイに対して、芸術至上論的な発想を以て批判している。

 今、国民的芸術が、復旧と保守の地盤に城きなさるるものと思はば愚の至りである。又一個人の狭小なる理想を掲げて、多衆の画家の趣味嗜好を是非するならば、それは実に痴けたことであろう……我が友は美術史を面白くせんが為に画を描いて居るのでない。動かす可からざる、画法の原則に拠いて、自己の感興する所を描く、単にそれのみである。其嗜好する所の趣味、思想、感情等が西洋臭味であっても、所謂日本趣味を没して居ても、先人既踏の境地であっても、更に頓着しない。日本人的に日本特有なものを画かねばならぬというような、馬鹿気た愛国心は賛成しないのである。