そのことを知っているかどうかは重要ではない

ジョルジュ・バタイユの経済論『呪われた部分』に入れなかった草稿をまとめた『呪われた部分 有用性の限界』をながら読みしている。その本のなかで「喫煙」について書かれたものがあった。「喫煙」について常々感じていたことが言語化されていたので紹介したい。最近はバタイユ的なことを口にすると怪訝な顔をされてしまう。道徳的な倫理観、エートスというものが世界を覆っているのだ。

 現代の社会で浪費がほとんどなくなっているというのは、それほど確実なことではない。その反論として、煙草という無駄な消費をあげることができるだろう。考えてみると、喫煙というのは奇妙なものだ。煙草はとても普及していて、わたしたちの生活のバランスをとるためには、煙草は重要な役割を果たしている。不況のときにも、煙草の供給は真面目に配慮されるくらいだ(少なくともそうみえる)。煙草は「有用な」浪費に近い特別な地位を占めているのである。
 しかしこれほど俗っぽい浪費はないし、これほど時間つぶしと結びついている浪費もない。ごく貧しい人も煙草をふかす。ただしいまこの瞬間にも、煙草の値段はかなり高い。どれだけの人々が配給された煙草を、不足しがちな食品と交換しているだろう。そして食材がないために、貧しい人々はますますみすぼらしくなるのだ。あらゆる贅沢な浪費のうちで、煙草の浪費だけは、ほとんどすべての人の財布にかかわる事柄だ。ある意味では公共の喫煙室は、祝祭に劣らず共同的なものなのだ。
 ただ、ある違いがある。祝祭はすべての人が同じように参加する。ところが煙草は富む者と貧しい者の間でうまく配分されていない。多くの喫煙者は貧窮していて、特権のある人々だけが際限なく喫煙できるのだ。他方で、祝祭は特定の時間だけに制限されるが、煙草は朝から晩まで、いつでもふかすことができる。そうした散漫さのために、喫煙はだれにでもできるものとなり、そこに意味が生まれないのだ。喫煙する多くの人が、そのことをいかに認識していないかは、驚くほどだ。これほど把握しにくい営みはない。
 喫煙という祝祭は、人々に祝祭が行われているという意識を持続させる。しかしこの用途には、隠された魔術が存在する。喫煙する者は、周囲の事物と一体になる。空、雲、光などの事物と一体になるのだ。喫煙者がそのことを知っているかどうかは重要ではない。煙草をふかすことで、人は一瞬だけ、行動する必要性から開放される。喫煙することで人は仕事をしながらでも〈生きる〉ことを味わうのである。口からゆるやかに漏れる煙は、人々の生活に、雲と同じような自由と怠惰をあたえるのだ。

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