民衆芸術運動(43)

日本橋三越の展示会には農商務省の石田書記官が来館し、ドイツの農民工芸などの本三冊を贈られたり、別荘のサロンの農民美術での装飾の依頼を受けたりする。一人の老偉丈夫が山本鼎に金一封の入った封筒を手渡した。その封筒には

一日も早く全国に普及をいのる。
左の条件において大賛成
一 美術思想の普及
二 一国大挙副業的生産の普及
三 挙国悖風粛清の勃興

と書かれていた。その老人は「八紘一宇」という言葉をつくりだし、その理想国家主義によって、石原莞爾を満州国建国に向かわせた、在家仏教団体「国柱会」の田中智学であった。山本鼎の叔父は国柱会の幹部であったし、親友で妻の兄でもある北原白秋が翌年の大正一〇(一九二一)年に田中智学の側近であった佐藤菊子と三度目の結婚をしている。鼎も白秋も国柱会の会員にはならなかったが、少なからず影響を受けることになる。後に岩手で農民芸術運動を興そうと試みる宮沢賢治は熱心な会員であった。