基底材を猛り狂わせる

その150ページほどの本を、いつに手に入れたのかは分からないが、『基底材を猛り狂わせる』にいつかは挑戦しなくてはならないと思っていた。昨日、ふと手にとってめくったところ、今のなのではないかという気がした。ジャック・デリダのアントナン・アルトー論なのだが、昨日、9月4日はアルトーの誕生日だった。「描くことしかできない絵画」を描くことで超えるには《基底材》について深く考えなければならない。「絵」を描かないことで、絵画を超えたところで、それは何ものでもないのだ。基底材は支持体(紙や画布や板)のことだろうと思う。ジャック・デリダにとっての基底材とは「言語」なのだが、それが話をややっこしくしている。しかし文章なのだからそこから逃れられるわけもない。さらには「基底材と呼ばれるものが私を裏切った」というアルトーのデッサンに添えられた文章を起点にしていて、敗北は明らかだ。基底材を猛り狂わせるままにしておく他ないのだが、「おわかりか………」

基底材とはこの説明の場、詳細な説明の場、神の性的不器用さとの言い争い、ないし激論の場なのである。戦闘の場、決闘場、地面、寝台、層〔=婚姻の床〕、さらには墓――同時にこれらすべてなのであり、そこにおいて人は出産し、堕胎し、あるいは死亡する。生誕と死、土着化と堕胎がそこでは同時に起こりうる。基底材は下方にある、ないし広がっている、と言うだけでは十分ではない。幾つかの下部の間で戦争が生じるのである。