単純な属性にカテゴライズされてしまうことへの違和感

多分、芸術を目指す前だったと思うが、テレビのバラエティー番組で岡本太郎が「ピアノを弾いて」その後のインタビューで「太郎さんは何者なんですか」との答えに「人間です」と答えていたのが強く記憶に残っている。良くも悪くも我々は人間という種であって、多分、それ以外の何ものでもない。自分が管理している「素人の乱12号店」で、3~4年ぶりに開催するノマドギャラリー「ナオナカムラ」のプレスリリースを読みながら思い出した。

「展示空間内にいる個人がその固有の具体性を失い「女性」や「パフォーマー」、「アーティスト」などといった単純な属性にカテゴライズされてしまうことへの違和感」

人は他人をカテゴライズして安心する傾向があると思う。突き詰めれば、良い人とか悪い人とかそういうことです。好きな人、苦手な人がいるのは分からなくもないですが、生命はそんな後付けの善悪でカテゴライズされるような単純のものではないと思うのは、地球や宇宙にとって人間などというものは害悪でしかないと感じることが度々あるからだ。リベラルだろうが、ファシストだろうが、宇宙にとって大した違いはないだろう。そんな害悪そのものの人間が宇宙に存在しているということを、どのようにとらえればいいのか。答えは「ディープ・エコロジー」ではない。人類の絶滅を期待するのは、種(主体)として間違っていると思う。

「ナオナカムラ」ディレクターの中村奈央さんが「妊娠、出産、育児」という男性にはなかなか経験できない、ある意味、特権的な人生の過程/経験を経て再起動した、ノマドギャラリー「ナオナカムラ」のセカンドステージが楽しみでならない。

関優花個展「私をばらばらに説明する」