ユートピアとしての共同体組織論

1971年4月号の「美術手帖」がある。芸術を目指そうと考え始めた頃に古本屋で購入したものだ。特集は「フリーク・アウト・アメリカ」と「バウハウスのパウル・クレー」、表紙は学生運動真っ盛りのコロンビア大学で撮影された「HAVE A MARIJUANA!」と印字されたチラシを持つ若者だ。「今月の視点」には、ブラッド・スウェット&ティアーズの武道館公演の紹介記事なども掲載されている。

金坂健二や今野雄二がドラッグカルチャーを伝道し、久保田成子がヒッピーコミューンの紹介をする。やっと美術作家論が出てきたと思いきやアンリ・ミショーのメスカリン・スケッチが並ぶ。全く油断も隙もあったもんじゃない。今話題になっている「電気グルーブ」をドラッグカルチャーの視点から見てみるのも面白いと思うが、そんな勇気のある評論家など今やどこにもいないだろう。

なんで古い美術手帖を引っ張り出してきたかというと、この号の美術手帖には、シリーズの「足立正生インタビュー4」に「東京キッドブラザーズ」の東由多加へのインタビュー「ユートピアとしての共同体組織論」が載っているからだ。テント劇団である台湾海筆子のドキュメンタリー「大テントー想像力の避難所」を観て、この映画で語られている「集団=共同体論」との差異を確認したいと思った。ミュージカルと芝居という違いはもちろんあるが、どちらも集団としてとしか成立しないものだ。

「ユートピアとしての共同体組織論」の中で、東は山岸会へのあこがれと同時に沸き起こる嫌悪感を隠そうとしない。それはユートピアとしての共同体の矛盾なのだろう。ところが桜井大造が立ち上げた野戦の月や台湾海筆子という集団=共同体はユートピアを求めない。より強い現実を求めるのだ。それは「ひとつの牢獄」だと台湾の評論家、王墨林は表現するのだが、その牢獄のような場所からこそ、集団としての表現が生まれるのではないだろうか。