民衆芸術運動(36)

金井正らとの会合の後、東京に戻った山本鼎はアルス出版から刊行される『油絵の描き方』を執筆し、九月の院展では渡欧中に制作したものを中心に一七点の作品を特別展示として発表した。開催中に以前から縁談の話のあった北原白秋の妹いゑと入籍して、東京田端に新居を構え、版画協会創立の準備を始める。他にも生活費と渡欧で作った借金の返済のために版画の頒布会を開いたり、恩師の桜井虎吉が亡くなり経営に行き詰った「清和堂写真製版所」の建て直しなどに奔走している。
山本が渡欧後には『方寸』に影響を受けて、創作版画を志す若い美術家たちも増え、創作版画を志す若い美術家たちも増え、長谷川潔と永瀬義郎が、西条八十や日夏耿之介らの文芸同人誌『仮面』の表紙や口絵の版画を制作し評判になったり、大正三(一九一四)年には、恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄の版画誌『月映』も刊行されていた。大正五(一九一六)年には、版画運動を興そうと長谷川潔・永瀬義郎・広島新太郎が東京版画倶楽部を結成していた。
大正七(一九一八)年、山本鼎、寺崎武男、戸張狐雁、織田一磨を発起人として、東京版画倶楽部や月映同人を取り込む形で、日本創作版画協会を設立し、大正八(一九一九)年一月、日本橋三越で第一回展を開催する。目録に、山本は「版画の黄金期を促す事が吾々の急務である」と書き、寺崎武男は「今や世界は民衆美術の勃興を萌芽しつつある」と書いている。日本創作版画協会の発起人たちは、創作版画を民衆芸術としても捉えていたのだ。