原水爆署名運動と公民館

図書館で予約していた『原水爆署名運動と公民館』が準備出来たというので借りに行く。「公民館を存続させる会」が作成した、水爆禁止署名運動杉並協議会の議事録や機関紙などのコピーを一冊の本にまとめたものだ。切れていたり、読み取れない文字もあるが、タイプしてデータ化できればいいと思う。計画中の事業の中で出来ないだろうか?今は体育館に変わってしまった中央図書館の隣の公民館、公民館の館長だった国際法学者、安井郁(やすい かおる)は水爆禁止署名運動杉並協議会の議長となり、初代理事長となった原水協が分裂するまで、原水爆禁止運動の第一線で活躍する。原爆の図の丸木夫妻とも親しくしていた。安井郁の追悼文集に丸木俊の寄稿があった。

 あれは、一九七〇年だったと思います。『原爆の図』を持って、アメリカに行かなければならない、それにしては少しお金が足りないので、「先生どうしたらいいでしょうか」と相談に行きました。そうしましたら安井先生は「よし、わかりました」とおっしゃって、ちゃんと背広をお召になって、ネクタイをきちんとお結びになりまして、有楽町の街頭に立ってくださったんです。奥様もご一緒に立ってくださいました。そして、大きな大きな声で、ほんとに大きな声で「『原爆の図』を、原爆を落とした国のアメリカの人たちに見てもらうために、アメリカの人々と一緒に考えるために、みなさまのお力で送り出してやってください」とおっしゃってくださいました。私の方は、何だかはずかしいような気がして、小さくなっていますのに、先生のお姿と奥様の様子を見ていましたら、はずかしがったりなんかしている私の方が、やっぱりおかしいんだと思いました。あの時の先生の真面目な態度には、ほんとにびっくりしました。そのお陰でわたしたちは、『原爆の図』をかついでアメリカに渡ることができたのです。
『道-安井郁・生の軌跡』法政大学出版局、1983年 「街頭に立たれてー丸木俊」より抜粋

わたしの被爆体験と原爆の図展

原水爆のことを考える機会が多くなった。土曜日には井伏鱒二の「黒い雨」を読みつつ原爆の図丸木美術館に「西岡洋さん公開トーク 「わたしの被爆体験と原爆の図展」について」を聞きに行く。簡単な報告を書いたので転載します。

西岡さんは長崎での被爆者で、占領が解かれ原爆に関する情報が解禁された1952年に在学していた都立大学の学園祭で「原爆展」が開かれ、各学部による専門的な研究発表が展示される中、長崎のパノラマ写真の前で被爆体験を語ることになったそうです。その後、都立大学で作成したパネルは「東京都平和委員会」に請われて、原爆の図の巡回展で原爆の図とともに展示され、西岡さんも被爆体験を様々な場所で話したとのこと。山口など都内以外の巡回展に参加していたそうです。その際に、原爆の図の初期三部作が二部あることに気づき、その良否について議論した話なども。井の頭にあった昆虫学者の平山修次郎の私設の昆虫博物館で開いたときの写真もあり、人が並んだという話。印象的だったのは、当時13歳だった西岡さんは、悲惨な状況下で無感情になってしまい、外を歩いている時に焼けただれた人たちに水を乞われた際、振り払って逃げてしまったことを一生の後悔として背負っていることでした。

大阪にあるシアターセブンで公開中のドキュメンタリー「いのちの岐路に立つ ~核を抱きしめたニッポン国~」の中でも証言されているとのこと。

次の日、日曜の朝に電気ケトルの湯気で腕をやけどしてしまった。無意識のうちに被爆の追体験をしたかったのかもしれない。直径3センチ程度の水ぶくれになり皮膚が変色したのでハサミで破って皮膚を剥がしキズパワーパッドを貼った。体液が浸出して膨れ上がっている。

自由版画教室

かつての美術としての創作版画と社会運動としての版画運動に作家が行き来していたことからもわかるように、版画の世界はある意味狭い。版画を習っていたアートスクールの助手だった年上の女性との恋愛と結婚が終わって、版画の世界からは身を引いたつもりだった。(彼女は現役の版画作家として作品を作り続けている)しかし原発が爆発して、いろいろな出会いがあって、2014年から、もう一度版画に取り組むことになった。

A3BC:反戦・版画・反核コレクティブをみんなで立ち上げる前に確か3回ほどイレギュラーリズムアサイラム木版画のワークショップを行った。その後は毎週木曜のA3BCで作品制作とともに、また、反核、反戦の抵抗の現場でのワークショップを行ってきた。今回、春に始めた自由芸術大学版画教室を始める。父親に教師となることを要求され、拒否してきた自分としては居心地の悪い気もするが、絵を趣味とする母親を早くに亡くした人にあじさいの版画を作る方法を教えたいと思ったのがきっかけだ。

A3BCは反戦と反核をテーマとした抵抗の版画を作るコレクティブだが、自由版画教室は自由をテーマとした個人的で情緒的なワークショップになるだろう。作品が揃ったらそれぞれの参加者が作った版画で展覧会を開いてみたいと考えている。そこにあじさいの版画はあるだろうか。

黒い雨

いきさつはよく分からないが、岡山にいる9歳離れた姉がキャンディーズの解散ツアーだったのか、コンサートのチケットを買ってくれたので見に行った。多分高校一年生の時だ。その頃、キャンディーズは常にテレビに出ていたし、街でもよく曲が流れていたけれど、特にファンというわけでもなかったので、コンサートの記憶はほとんど無い。衣装が妙にキラキラしてた感想程度か。彼女たちは「普通の女の子に戻りたい」と解散したわけだが、そうは問屋が降ろさない。キャンディーズ時代とのギャップが印象的ということもあるだろうが、夢の遊眠社の「怪盗乱魔」で沖田総司役だった伊藤蘭に涙がとまらなかったし、なにより「黒い雨」の田中好子にはまいった。何の因果か、田中好子は福島第一原発事故からまもない4月にガンで亡くなった。荻窪に住むようになって、やはり井伏鱒二は気になっている。「山椒魚」を教科書か類するもので読んだ記憶はあるが、他は読んでない。若い頃に荻窪に立ち寄って井伏鱒二の家を探した記憶があるので、荻窪風土記ぐらいはめくったのかもしれない。荻窪の古本屋で「黒い雨」の文庫本を買う。盗作騒動もあったいわくつきの小説だし、その評価や、原爆文学として認められているかどうかはわからない。「広島の第二中学校奉仕隊は、あの八月六日の朝、新大橋西詰めかどこか広島市中心部の或る橋の上で訓示を受けているとき被爆した。その瞬間、生徒たちは全身に火傷をしたが、引率教員は生徒一同に「海ゆかば……」の歌をピアニシモで合唱させ、歌い終わったところで「解散」を命じ、教官は率先して折から満潮の川に身を投げた。生徒一同もそれを見習った。」と[日本人]が二度と戦争をしてはならない理由が1ページ目に記してあった。

今日は署名運動のリサーチ

杉並中央図書館で少ない資料を見たあと、郷土博物館へ。杉並の先史から現代までのコンパクトな常設展示と準常設展『杉並文学館』。署名運動の資料はわずか4点。どこかに眠っているのだろう。探せばどこかにあるはずだ。

共産主義党派文芸を評す

今日は12号店が雨漏りして大変でした。ところで、新居格は四国(徳島)出身だったのか。モガ、モボという流行り言葉を造語したのも新居だったとは!

まだちゃんと読めていないけれど、『アナキズム芸術論』は要は(共産)党派芸術批判に尽きるようだ。

まず人間であること、みんなが芸術家であること。

 それから私はわれわれの文芸を打ち出すべき余地を殆ど失った。だがわれわれの立場からするプロレタリア文芸観は文芸はアナキスチックな本質を有すること、プロレタリアの自由文芸であること、すなわち命令や強制によって歪曲されないこと、同士意識に根底を置くべきこと社会性階級性をもつこと、従って階級闘争的であること、何よりも強権の否定と自由の強調に意義を置くこと、英雄主義の否定、偶像崇拝の厭悪、無政府主義の社会思想とその社会に於ける人類の生活を暗示するもの、資本主義社会の不合理な機構の摘発と否定。
 ヴンドによれば、英雄及び神の時代は神や英雄の像が類型的でその個性が現れなかったとしている。共産主義はその個性を類型若しくは階級性に復戻させた。無政府主義は階級性に根ざした個性の自由によりて成り立つ階調性への示唆である。超個人的個人主義である。私は数次無名礼賛の説をなした。私の無政府主義的文芸観は大体以上のものの結合観念から成り立つ。
 「共産主義党派文芸を評す」 新居格

菊とギロチン -女相撲とアナキスト-

以前「女相撲」の映画を自主制作する監督がいるとのことで、知り合いの元高校女子相撲全国2位の女性が相談を受けていると聞いていた。実は映画のことなどよく知らないので、監督の名前も聞いたことがなかったのだが、昨日行った足立正生監督のイベントの続きがどうやらその映画監督の特集だったようだ。今日は行けなかったが、昨日そのメイキングビデオの上映もあった。

瀬々敬久監督の『菊とギロチン』。主演男優は東出昌大で他にも名前を聞いたことのある俳優が出演している。自主制作とはいえ、商業映画並みのキャスティングだ。「ギロチン」とは「ギロチン社」のことで、大企業への恐喝(リャク)を行いながら、コミューン建設を夢見た若者のグループだ。憲兵による大杉栄の惨殺をきっかけにテロ集団と化してしまうのだが、軍国主義に雪崩落ちる時代、不安、不満が蔓延する社会をよくわからないままに背負ってしまった若者たちへのシンパシーを持つ監督が、実際には彼らと接点のなかった「女相撲」の女性たちとの交流の物語を通して、「ギロチン社」の真実の姿を浮かびあがらせようとする作品のようだ。

撮り終えた段階で資金が尽きて、いまだ編集ができていないとのこと。さっさと上映しないと手遅れになる。余裕のある方はぜひ出資か協賛を。

 

町田市立国際版画美術館

先週、Café★Lavanderíaにコーヒーを飲みに行った。イベントや打ち合わせ無しで行くのは初めてかもしれない。本棚をゆっくり眺める。ポリティカルな画集が目につく。魯迅の木刻運動あたりの版画の本があった。町田市立国際版画美術館と静岡?県立美術館との合同出版。展示に合わせて作成したのだろう199何年だったか。とても良い本。 A3BCを始めるまで、長い間版画から遠ざかっていたが、町田にも通おうかと思う。

今日は町田市立国際版画美術館に行く。「インプリントまちだ展 2017 絵描き・ながさわたかひろ、サッカー・FC町田ゼルビアでブレイク刷ルー!FAUのレクチャーで知り合った学芸員の方のギャラリートークを聞きに行きます。時間のある方はぜひ!午後3時からです。

戦後初の杉並区長、アナキスト新居格

最近知ったのだが、戦後初の杉並区長の新居格はアナキストの文筆家だった。

今年の秋に新居の書いた「区長日記」の復刻版が刊行されるとのこと。その出版記念レクチャーを11月に自由芸術大学で行う企画を進めている。

新居の文章は『アナキズム芸術論』以外読んでないのだが、新居の文化政策をネットで調べてみると「杉並区を新しい文化地区にしたい、それがわたしの夢である。荻窪駅の北側にある大通り、あのあたりがわが杉並区のセンターともなろう。よき図書館、上品なダンスホール、高級な上演目録を持つ劇場、音楽堂、文化会館、画廊などがあってほしい」とのこと。現在、荻窪駅北口にある文化施設は、杉並公会堂、アニメーションミュージアムくらいか。

なかなか面白そうなレクチャーになりそうです。

詳細が決まリ次第、自由芸術大学のウェブサイトでお知らせいたします。

カウンターカルチャーとフリーカルチャー

東京藝術大学博士課程の狩野愛さんが武蔵野美術大学の非常勤をしていて、その関係で2016年度の武蔵美の紀要に自分たちのやっている版画コレクティブに関する論文を書いた。反響があったようで、海外の学術サイトに英訳が掲載されるという。現在、英訳のための校正を入れているとのことで、過去の情報を求められたのだが、1年間だけ行っていた「国際自由メディア大学」の情報が見つからない。ということでInternet Archiveに当時のURLを入れた。

2008年にその頃はまだ存在していた横浜「ZAIM」で『カウンターカルチャーとフリーカルチャー:リビドーの新たな潮流』という発表をした時のテキストが残っていた。懐かしい感じがして、せっかくなので、このブログにも転載しておきます。

 

カウンターカルチャーとフリーカルチャー:リビドーの新たな潮流



2008年9月14日に横浜「ZAIM」で行われた「フリーメディア! フリーアート!」展でのレクチャーの原稿を一部修正したものです。このドキュメントには、真理も思想も哲学もありません。フリーカルチャーに関する思考の流れを綴ったフリーソースです。


はじめに、アメリカの詩人で、グレイトフル・デッドの歌詞も書いていた、サイバースペースの自由と公正を保障する目的で設立された、電子フロンティア財団(EFF)の共同設立者のジョン・ペリー・バーロウが、1996年にアメリカ議会がインターネット上の猥褻情報を規制する通信品位法を可決したときに発表した「電脳空間独立宣言」を紹介します。

汚物にまみれた産業界と癒着した世界中の政府に告げる。醜く肥え太り正常な判断力を失った諸君ら忌むべき独活の大木どもよ、私は魂の新世界、電脳空間からの使者だ。やがて訪れる未来の為に言う、我々に干渉しないでくれたまえ。諸君は我々にとって歓迎すべからざる存在だ。この電脳空間に集う我々に対して諸君らは何の主権も持ってはいない。

さすがにイッピーらしい文章に仕上がっています。イッピーというのは、ヒッピーの死後(LSDが禁止されたことで、1968年にヒッピーの聖地、サンフランシスコ、ヘイトアッシュベリーにヒッピーたちが集まってLSD埋葬の儀式を行い、その死を宣言しました。)ヒッピーとニューレフトが合体したもので、ヒッピーのように放浪したり、コミューンを作ったりするだけでなく、反体制的な政治活動も行っていました。

イッピーのリーダー的な存在であった、アビー・ホフマンウッドストック・フェスティバルに参加した直後、5日間で書き上げた「Woodstock Nation」という本の中に以下のメッセージがあります。

われわれは政党を組織してアメリカにうち勝とうとは思わない。新しい国家を建てて、勝つのだ──ウッドストック・フェスティバルの種子から生まれたマリワナの巻きたばこのように粗野な国家を。
この国は愛の上に建てられるだろうが、愛するためには、われわれは生き残らなければならず、そのためには闘わなければならない。われわれの戦い方は変わっているかも知れないが、その精神は昔からの──勝利か、さもなくば死を!である

26年後に書かれたバーロウの「電脳空間独立宣言」と同じ匂いがぷんぷんします。

アビー・ホフマンと共にリーダーシップをとったジェリー・ルービン(学生時代にキューバに密航、チェ・ゲバラに会って革命家になることを決心した)が1970年に出版した「DO IT! 革命のシナリオ」という本の中では、「未来のイッピーランド」という国家構想もたてられていました。そこでは、アメリカ国歌のかわりにボブ・ディランの歌が歌われ、監獄も警察も裁判所もなく、世界中が無料の食糧と家であるような一つのコミューンになって、国防省はLSD研究所となり、人々は朝は農耕に従事、昼には音楽をきき、そしていつでも、どこででもセックスできるような国を、多分、本気で作ろうとしていた人です。戦争の理由も知らされない若者が、有無を言わさず徴兵され、ベトナム戦争に連れていかれ、運が良くても人殺し、運が悪ければ戦死する時代だったということを考えると「未来のイッピーランド」が、当時の若者の理想だったとしてもそれほどおかしなことでは無いと思います。

JAZZを起点として、ケルアックギンズバーグバロウズのビートニク御三家あたりから始まり、ベトナム反戦をきっかけに大きなムーブメントに発展した、ヒッピー/イッピーに至るこの一連の主に政府/資本に対する抵抗から生まれた文化のことを、一般的にはカウンターカルチャーと言いますが、ヨーロッパや日本でも同じ時期にさまざまなカウンターカルチャーが生まれていました。日本の場合は、フーテンと呼ばれる元祖ヒッピーのような人たちや、アングラと呼ばれる人たちやがその文化を担っていました。しかし、イッピーのようにヒッピーと左翼とが協力し合うことは少なかったようです。

カウンターカルチャーはその後、暴動など過激な行動に走ったり、カルト宗教を妄信する若者が増えることによって、一般市民の支持を失い、1970年のアースデイに代表されるような政府の懐柔策もとられたり、また、カウンターカルチャー自体が資本に取り込まれ商品化されることによって、対抗する力を次第に失っていき下火になるのですが、その奥底では、デジタルの光が点滅していました。MIT(マサチューセッツ工科大学)で生まれたアナキズムハッカー精神とアメリカの学生運動の拠点であったカリフォルニア大学バークレー校のイッピー思想とが、サイバースペースで融合し始めていたのです。サイバースペースではソフトウェアや情報はフリーが基本です。ハッカー達は、長距離電話をタダでかけられる装置を作ったり、夜中でもコンピュータ室に侵入し、どんな人のプログラムも利用できるように、ピッキングの道具も揃えていた程です。

ヒッピーの理想は自然回帰・反文明ですので、コンピュータとは相性が合わない部分もありますが、IBMの巨大コンピュータによる管理社会の到来と戦うために、ハードウェアハッカー達の作り出したパーソナルコンピューターは革命のための武器として欠かせないものでした。コンピューターは人間の脳を真似て作られていますので、精神世界の拡張や対象化をそこに見出したヒッピー/イッピーも少なくはないと思います。また、ハッカー達のヒッピー/イッピーに対するリスペクトもあったようです。アップルコンピューターの創業者の一人であり、パーソナルコンピュータを世界に広めたAppleIIの設計者、スティーブ・ウォズニヤックなどは、ウッドストックの再来を夢見て、AppleIIの成功で手にしたお金をつぎ込んで、USフェスティバルという大規模な野外ロックフェスティバルを主催していました。

この時代の一連の流れのキーパーソンとして活躍したのが、サイケデリック革命の父と呼ばれることとなった、ハーバード大学で教鞭をとっていた心理学者のティモシー・リアリーで、LSDを人間の創造性と意識を高める媒体として、その有効な使用方法を研究したり、ときには宇宙移住計画を構想したり、晩年にはパーソナルコンピュータをLSDのような媒体として使う研究をしていました。他方、CIAはドラッグや放射線などを使った「MKウルトラ計画」というマインドコントロール研究を行ったという話しもありますので、ティモシー・リアリーを教祖化したり、LSDなどのドラッグやコンピューターをあまり神秘主義的に捉えたりしない方が良いと思います。

このように、カウンターカルチャーが様々な実験を経て、フリー基準のサイバースペースを生み出しました。MITでコンピュータにログインするためのパスワード廃止のキャンペーンを行っていた、リチャード・ストールマンが1984年に「ソフトウェアは個人の所有物にすべきではない。」とフリーソフトウェア財団を設立し始めたフリーソフトウェア運動によって、さらに先進的なフリーカルチャー運動が始まりました。カウンターカルチャーは既存の世界観に対抗するものでしたが、フリーカルチャーではその立場は逆転し、サイバースペースにおける新しい世界観に対抗する、古い権力や資本の侵入を防ぐ万里の長城として機能しはじめたのです。

現実空間の中ではその活路を見出せず衰退していったカウンターカルチャーが、なぜサイバースペースでフリーカルチャーとしてよみがえったかというと、そこにプリゴジンらの研究による、散逸自己組織化の思考が盛り込まれたからではないでしょうか。

実験室のような閉鎖的なコミュニティでは、次第にエントロピーは増大し最後には平衡状態になり死を迎えます。たとえば、あるコミュニティがカルト的宗教観を持ってしまうとその殻は閉じ、その考え方は一様になり、集団自殺をしたり、破滅的な行動に走ったりする事実を熱力学の第2法則から読み取ることができます。ひとつの生命、ひとつの世界がその歩みを止めないためには、非平衡状態であり続けなくてはなりません。その非平衡状態を作り出しているものは自由という散逸系であり、そこにゆらぎを作り出すものは「リビドー」といわれるエネルギーで、平衡に向かおうとする時間の流れの中から新たな秩序を作り出すのは多様性です。

社会において多様性を作り出すものは、創造力です。リビドーが創造力に備給して多様性が生み出されます。創造物や器官を通してリビドーは交換されることもありますが、資本主義社会においてリビドーはマネーにコード化される確立が高くなります。(サイバースペースもコードですが、それはひとつのアルケーへと向かうようなマネーのコードではなく、ライプニッツモナドのような、そこから多様性が生成するようなコードです。)そこでは創造力、多様性の均一化が起こり、余ったリビドーはマネーに搾取され、本来は創造力の中で流動しているリビドーはコード化されたマネーの中で増殖をはじめます。多様性は減少し秩序が乱れることでエントロピーは増大していきます。

陰陽太極図を見てください。世界をなんとか図にしようと落書きしているうちに、このかたちにどんどん近づいていきました。このトポロジックな図は思いのほか世界を表現しているように思います。黒い部分が政府、白い部分が資本と思って見てください。産業革命から前世紀までは上半分。政府が資本を包み込むようなかたちです。現在は下半分、資本が政府を包み込むようなかたちに変化しました。(産業革命以前は、黒い部分が宗教、白い部分が政府だったのかもしれません。)

政府が資本を包み込んでいた時代には戦争を起こすことで、暴走する資産経済を兵器の売買という実体経済に無理矢理引き込み消費することが可能でした。バタイユ的にいうと、剰余は蕩尽されなくてはならないということです。しかし、二度の世界大戦を経て、その代償があまりに大きいということを知りました。最近のアフガニスタンイラクの状態を見ても分かるように、いまや社会のエントロピーを減少させられるような戦争を起こすことはもう出来ません。資本が政府をも包括してしまった現在、社会にとっては癌とも思える行き過ぎた資産経済の暴走を止められるものは、フリーカルチャーしかありません。剰余マネーを無料によって消尽させること。フリーであることがひとつのカルチャーとして成り立つような論理/行動を世界は求めているのです。創造力をフリーに流通させることにより、リビドーの新たな潮流が始まります。マネーにそのエネルギーを搾取されることなく多様性を増大し続け、それが閾値に達したとき「無償の秩序」が現れ、社会の新たなパラダイム、より良い世界が開けるのではないでしょうか。

最後になりますが、Wiredケヴィン・ケリーの書いた「「複雑系」を超えて—システムを永久進化させる9つの法則」にあるスチュアート・カウフマン(複雑系科学、生物進化学)との議論の中で、カウフマンが語った言葉をお伝えして終わりにします。(カウフマンは、理論生物学者で複雑系の研究者です。「自己組織化と進化の論理」という本の中で、生命の起源やその進化、さらには生き物の秩序や進化する当の能力「無償の秩序─自然に生じた自己組織化」が関わっているのではないか。といっているような人です。)

「これは全く直感的なものですが、フォンタナ(ウォルター・フォンタナ/カウフマンと同じく、サンタフェ研究所(複雑系研究のメッカ)の研究員だった)の『記号列から記号列が生じ、その記号列からさらに記号列が生じる』という考え方から『創造行為から創造行為が生じ、その創造行為からさらに創造行為が生じる』へと進めば、それが文化的進化へと、さらには諸国民の富へとつながることは、あなたにも感じることができるでしょう。」