2017年のキーワードは『民衆芸術』

最近、思いついてブログで書いている民衆芸術論の第一部「黒耀会」が出来たので、冊子用に手直しして、『A3BCブックレット』!!の第1号として、24ページのジンにしました。デザインとレイアウトはイレギュラー・リズム・アサイラムの成田さん。持っているだけでもかっこいい冊子です。

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『クロポトキン芸術論』加藤一夫

むかし、加藤一夫という詩人、評論家がいた。明治20(1887)年に和歌山で生まれた彼は、田辺中学時代に新しく赴任してきた校長の排斥ストライキ運動を起こす。退学、和歌山中学への復学を経て、和歌山のキリスト教会に出入りし、洗礼を受ける。1908年、明治学院神学部予科に入学、卒業後宣教師となるがキリスト教への疑念が解けず教会での仕事をやめる。1914年鎌倉高等女子学校の教師となるが、社会主義的な指導をしているとされ、わずか4ヶ月で辞職に追い込まれた。その後、トルストイの『闇に輝く光』の翻訳を皮切りに、文筆家としての道を歩み始める。存在理由を自らの生命に拠り、自己の真実を生きようと、本然生活を目指す。1915年には月刊文芸誌『科学と文芸』を刊行し、文芸人として認知されていく。ロマン・ロランの翻訳もしていた加藤は民衆芸術の議論が盛り上がると、理論的主導者の一人として、社会運動にも関わっていくことになる。「自由人連盟」「社会主義同盟」の発起人となり、大杉栄らアナキストグループとも交流を持ち始め、『民衆芸術論』『農民芸術論』などアナキズム的な文化論を発表していく。関東大震災後の戒厳令下に巣鴨署に検束されるが、東京を離れることを条件に釈放され、富田砕花を頼り兵庫での生活を始める。尾行に監視される中、翻訳の仕事で生活費を稼ぎながら、個人誌『原始』を刊行する。大杉栄虐殺、復讐の失敗、アナ・ボル対立の激化。1925年に東京に戻った加藤はアナキストたちに歓迎される。死刑判決を受けた古田大二郎にも2度面会し、通夜にも出席している。個人誌『原始』は寄稿も受けるようになり、アナキズム系機関誌として「無産階級文芸誌」となった。衰退するアナキズムとソ連の独裁化に追従する社会主義の中に自らの真実を見失っていく加藤は一田舎であった神奈川の中山への転居をきっかけに農本主義に傾倒していく。新居は雑誌「民衆芸術」を刊行していた大石七分がデザインした豪邸とも呼べる西洋館だった。理想主義的なコミュニティを作ろうとする中で、加藤は一度は見失った宗教人としての自覚を取り戻していく。創立に関わった春秋社の成長に支えられた中山での田園生活だったが、春秋社の凋落により、金銭的な支えを失い、7年後にはすべてを失う。崇神天皇の「農は天下の大木なり」にも通じる「農本」主義は国家主義や天皇崇拝との親和性を持ち、加藤の農本主義への傾倒と宗教人としての自覚は、ついには天皇信仰に転向する。太平洋戦争後は『新農本主義』を掲げるも、次第に表舞台から消えていく。戦後の加藤の思想については未見なので、ここでは触れない。終戦時、長男哲太郎は新潟第五俘虜収容所の所長であり、戦犯にされることが確実であったため、地下生活を送るが、1948年に捕らえられ、米軍事裁判で絞首刑の宣告を受ける。加藤の奔走により再審され、最終的には禁錮30年に減刑された。哲太郎が服役中の1951年に加藤一夫は永眠する。哲太郎の手記「狂える戦犯死刑囚」をもとに制作された、フランキー堺主演のテレビドラマ『私は貝になりたい』は大きな反響を呼んだ。

加藤一夫の転向や石川三四郎の「土民生活」との違いを考えることは、民衆芸術の復興を考えることに他ならないだろう。少しずつではあるが、このブログで、加藤一夫が書いた芸術論を紹介していこうと思っている。まずはその元になったであろう加藤一夫訳の『クロポトキン芸術論』から始めたいと思っている。

民衆芸術運動(29)

『東京パック』には風刺・風俗漫画を描き、『方寸』では自然主義・リアリズム的な版画を作り、『パンの会』では反自然主義・耽美的な詩人たちと交流・遊興していた山本鼎は、失恋の痛手もあり、その矛盾が重荷となって『方寸』への寄稿も減っていた。明治四四(一九一一)年「版画の創作、評論を発表せんとす、而して方法は月間専門雑誌の発行及び版画展覧会の開催等に拠らん」と宣言し、心機一転、東京版画倶楽部を立ち上げる。活動の資金稼ぎもあってか、ひともうけしようと、同年三月に竣工した帝国劇場の役者絵を坂本繁二郎と描き、版画集『草画舞台姿』を東京版画倶楽部から出版する。「第三集」まで出版するが、そのときは思うようには売れなかった。七月十日に発行した青木繁の追悼号を最後に『方寸』も廃刊となる。それらの欝積から抜け出すために渡欧して、美術を学びなおそうと、旅費を集めのためパトロンを探し始める。

民衆芸術運動(28)

山本鼎は東京美術学生時代に、石井家が借りていた借家の部屋を借りて同居したことがある。そこで出会った石井柏亭の妹みつに、鼎はいつからか恋心を抱くようになっていた。母のふじのに求婚の許しを乞うたが、あまりいい返事をもらえなかった。石井家には八人の子どもがいたが、父の日本画家石井鼎湖が明治三〇(一八八七)年に五〇歳で亡くなり、すでに嫁いでいた長女は別に、苦労して七人の子どもを育てた母のふじのは、生活が安定しない画家の嫁にはしたくなかったのだろう。夫は画家であったし、柏亭は画家として渡欧の準備を始め、弟の鶴三は東京美術学校を卒業したばかりであった。このとき鼎は二八歳で、その青春の時期も終わろうとしていた。あきらめきれない鼎は、柏亭が渡欧を計画していることもありその年のうちに、かつての師匠桜井虎吉を通して正式に結婚の申し出をした。しかし、この恋に協力的でない柏亭と喧嘩をしたりと、石井家との間にも気まずい空気が流れ、母ふじのは桜井を通して縁談をことわった。この失恋はよほどこたえたようで、半年間、旅や登山をして過ごしている。京都に寄ったときに、中学に通う甥の村山槐多の絵を見て、油彩道具一式を買い与えた。
この年、明治四三(一九一〇)年は大逆事件による幸徳秋水ら社会主義者の大量検挙、日韓併合などが行われ、日本は帝国主義国家へとのし上がっていく。

民衆芸術運動(27)

明治四一(一九〇八)年に平福百穂 、倉田白羊、小杉未醒が、翌年には織田一磨,坂本繁二郎が『方寸』同人となる。『方寸』にも寄稿していた北原白秋、木下杢太郎らが『明星』新詩社を脱退し、『明星』が廃刊となった明治四一(一九〇八)年一一月、木下杢太郎の提案で、新興文芸・美術運動の母体となる「パンの会」が結成された。この名前はドイツベルリンの高踏派の芸術運動体の名前で同名の文芸雑誌も出版していた「Pan(半獣神)」からとったものだ。パリのカフェ文化に倣い、パリのセーヌ川に見立てた隅田川の両国公園にある西洋風の料理屋「第一やまと」で同年一二月五日、第一回目の会合を持つ。『方寸』同人と北原白秋、木下杢太郎、石川啄木、吉井勇ら二〇代の芸術家が集った。回を重ねるごとに参加者も増えていき、「スバル」「白樺」「三田文学」「新思潮」の同人も加わった。芸術の社会的・政治的側面を嫌う高踏・耽美主義的な集まりであったが、若者のデカダン的などんちゃん騒ぎに対して、警察が監視を置くこともあった。

 何でも明治四十二年頃、石井、山本、倉田などの「方寸」を経営してゐる連中と往き来し、日本にはカフエエといふものがなく、随つてカフエエ情調などといふものがないが、さういふものを一つ興して見ようぢやないかといふのが話のもとであつた。当時我々は印象派に関する画論や、歴史を好んで読み、又一方からは、上田敏氏が活動せられた時代で、その翻訳などからの影響で、巴里の美術家や詩人などの生活を空想し、そのまねをして見たかつたのだつた。
 是れと同時に浮世絵などを通じ、江戸趣味がしきりに我々の心を動かした。で畢竟パンの会は、江戸情調的異国情調的憧憬の産物であつたのである。
 当時カフエエらしい家を探すのには難儀した。東京のどこにもそんな家はなかつた。それで僕は或日曜一日東京中を歩いて(尤も下町でなるべくは大河が見えるやうな処といふのが註文であつた。河岸になければ、下町情調の濃厚なところで我慢しようといふのであつた。)とに角両国橋手前に一西洋料理屋を探した。最初の二三回はそこでしたが、その家があまり貧弱で、且つ少しも情趣のない家であつたから、早く倦きてしまつて、その後に探しあてたのは、小伝馬町の三州屋といふ西洋料理屋だつた。ここはきつすゐの下町情調の街区で古風な問屋が軒を並べてゐる処で、其家はまた幾分第一国立銀行時代の建築の面影を伝へてゐる西洋館であつたから、我々は大に気に入つた。おかみさんが江戸つ子で、或る大会の時には葭町の一流の芸者などを呼んでくれて、我々は美術学校に保存してある「長崎遊宴の図」を思ひ出して、喜んだものである。
——木下杢太郎 「パンの会の回想」

民衆芸術運動(26)

東京美術学校を首席で卒業し、漫画家の北澤楽天が主宰する風刺漫画雑誌『東京パック』などに挿絵を描いていた山本鼎は、眼病のため学校を中退し大阪で療養生活をしていた石井柏亭が快癒したこともあり、柏亭を東京に呼び寄せ、学友だった森田恒友の三人を同人として、明治四〇(一九〇七)年、美術雑誌『方寸』を出版し、版画や評論などを掲載する。木版画の師匠であった桜井虎吉が新しい技術を導入し経営する「清和堂写真製版所」に印刷を依頼し、清和堂の仕事を請け負ったり、鼎自身が印刷を行うなどして、同人誌としては豪華な雑誌を安価に制作した。四年間で三五冊を出版した『方寸』周辺には多くの詩人・画家が集うことになる。第一巻第四号には、その頃の鼎の芸術と社会に関する考えが判る一文が載せられている。日露戦争後の軍国・帝国主義化が進み、国粋主義的な芸術を求める声が上がる中、東京大学文科の関係者で発行していた『帝国文学』に掲載された国粋芸術を勧めるエッセイに対して、芸術至上論的な発想を以て批判している。

 今、国民的芸術が、復旧と保守の地盤に城きなさるるものと思はば愚の至りである。又一個人の狭小なる理想を掲げて、多衆の画家の趣味嗜好を是非するならば、それは実に痴けたことであろう……我が友は美術史を面白くせんが為に画を描いて居るのでない。動かす可からざる、画法の原則に拠いて、自己の感興する所を描く、単にそれのみである。其嗜好する所の趣味、思想、感情等が西洋臭味であっても、所謂日本趣味を没して居ても、先人既踏の境地であっても、更に頓着しない。日本人的に日本特有なものを画かねばならぬというような、馬鹿気た愛国心は賛成しないのである。

民衆芸術運動(25)

山本鼎は東京美術学校在学中の明治三七(一九〇四)年七月、歌人与謝野鉄幹が主宰する文芸雑誌『明星』に「漁夫」を発表する。すでに挿絵や批評を『明星』で発表していた紫潤会同人石井柏亭が「十六日 友人山本鼎君木口彫刻と絵画の素養とを以て画家的木版を作る。刀は乃ち筆なり。本号に挿したるのも是れ。」と同誌で紹介する。鼎が木版工房で学んだ、西洋から印刷技術として輸入された小口木版と、ドイツ表現主義やエドヴァルト・ムンクの木版画にみられる丸刀や三角刀の彫跡を活かし、漁夫の生活を表現する自然主義・リアリズム的な佳作だ。この版画はそれまでの浮世絵や、印刷技術としての版画にみられるような分業・工業性を排するため、自画・自刻・自擦により絵画同様の美術作品とする創作版画の礎を築いた。同年九月号の『明星』には与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」が発表されている。日露戦争(一九〇四年二月~一九〇五年九月)の最中の出来事である。

民衆芸術運動(24)


鼎が小学校に通っていた頃、森鴎外がドイツ留学中に親交を結んだ画家原田直次郎が、森医院を訪れた時に見かけた鼎の母たけをモデルに、代表作「騎龍観音」を描いている。明治二三(一八九〇)年に官展で唯一洋画家が出品できる、第三回内国勧業博覧会に出品され話題になった。母がモデルをした絵が反響を呼んだことは、医師の系譜である山本家(父一郎は養子)から画家を目指す者が出たことにも大きく影響したのだろう。
鴎外が講師をしたこともある東京美術学校に入学した鼎は、鴎外の後任の美術史家岩村透に世界や個人―個性の重要性を教えられる。明治以前の日本人には世界や個人という意識が希薄であった。長く続いた身分制や家父長制によって、思考の最小単位が家族であったところに、開国による世界の出現、資本主義の導入による労働者の発生、同時に立ち上がる「自由」の意識。そのような社会状況に美術や画家がどのように関わっていけばよいかを岩村に教えられた。のちに鼎が自由画教育を提唱する原点となっている。
「芸術は、確信である。個性に信頼して、初めて、確信が起る。自負心は、美術家にとっては、美徳である、生命である。この心強からねば、均一の圧迫はたちどころに異才を平凡化する(岩村透)」

民衆芸術運動(23)

山本鼎は、明治一五(一八八二)年漢方医の山本一郎の長男として愛知県額田郡岡崎町(岡崎市)に生まれる。法令の改定により、西洋医学を学ばなければ医師の資格を取得できなくなったため、一郎は妻たけと幼子を残し、単身上京、森静雄(森鴎外の父)のもとで書生として西洋医学を学ぶ。鼎五歳の時に母とともに上京、浅草に暮らす。父一郎は鼎が小学校を卒業するころには森医院で代診を務めるようになっていたが、まだ医師の資格は得られておらず、鼎は卒業後木版工房の桜井暁雲(虎吉)に弟子入りし、住み込みで働く。写真製版の技術もすでに存在していたが、新聞、雑誌などで多用されていた、木口木版を一から学んだ。技術の上達も早く、今でも使われているキリンビールのラベルは鼎が制作したといわれている。七年間の奉公を終える頃には、父の一郎も医師の資格を得て、長野の神川村(上田市)で開業していた。写真製版、グラビア印刷技術の発達とともに、木口木版の利用も減る中、木版工房の独立ではなく、画家になることを目指した鼎は、実技試験のみで入学できる東京美術学校を受験するため、印刷工仲間で、官営印刷局に勤めていた石井満吉(柏亭)らの立ち上げた西洋美術研究会(紫潤会)に入り、報知新聞で木版挿絵を彫る傍ら、受験にそなえて勉強を始め、明治三五(一九〇二)年、東京美術学校西洋画科選科予科に入学する。