主題性・精神性・物語性(1)

 

ニュートン
4953ニュートンの光学によると、色は反射である。
リンゴの赤は反射するスペクトルの赤の光であって、赤以外の色をリンゴが食べているのだから、リンゴの本当の色は赤以外の色ということになる。赤いリンゴは本当は緑で、リンゴの葉は赤い。光学的な色彩論は私たちの感覚の倒錯を明らかにしてくれる。その光学的な色彩論を応用して印象派は成立した。絵の具の色数も増え、気軽に持ち出せるチューブ入りの発売によって、油彩画を外で、そして太陽の光の中で描くことが出来るようになった。絵描きは光を得たが、その代わり多くのものを失った。主題性、精神性、物語性だ。

ゴッホ
Xre4KcXyVP2H5GFHqwYchBMLM1ok0GEHwGUTerCJYnELzedZ1VBz_8g8S6_e=s1200印象派に関わりながらそれらを失わなかった作家がいる。フィンセント・ヴァン・ゴッホだ。彼が絵を描く目的は慈愛であった。その意味で作品はすべて習作といっていい。ゴッホは日本の浮世絵の分業制やウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツ運動の影響を受け、慈愛の発露として、貧しい画家たちの協同組合を夢見る。しかし、それを成立させるためには、ゴッホはラディカルでエキセントリックすぎた。ゴッホの死後、さらに不幸が舞い降りる。ゴッホはみるみる有名になり、作品の値は上がり続けた。共同主義は個人主義にとってかわり、作家は個人的な欲望を刺激され続けることとなる。

ブリュッケ
1906フランスで印象派がもてはやされる中、ドイツで素人による芸術集団が立ち上がる。ブリュッケだ。彼らは共同生活をしながら制作を行う。綱領を持たないことを是として自発的で自由な表現を試みる。彼らがゴッホに影響を受け、その失敗から学んだことは確かだ。しかし、メンバーの一人フリッツ・ブライルはブリュッケについてこう語る。「われわれがなにから離れようとしているかについては、よく知っていた。しかし、どこへ行こうとしているかは、全く知らなかった」と。そのような制作を行う彼らの唯一ともいえる共同作業が木版画による冊子作りだった。

青の穏やかな輝きは魂の輝き

ゲーテ → シュタイナー → ボイス の流れが面白くて、その芸術論を援用して作品を作っていた時期がある。特にニュートンの”死んだ”色彩論に対抗する、ゲーテ~シュタイナーの”生きた”色彩論に影響され、その頃は青い絵ばかり描いていた。ただ、青の諧調で描くことはなかなか難しくて結局、納得できるものを完成させることはなかった。青の輝きは永遠であって、縛りつけようとする線や形を消し去ろうとする。

2000年頃、宮沢賢治の詩に銅版画をつけて詩画集を作ろうとしたことがある。わがままなのか、挿絵的なものも結局うまく作れなかった。探し物をしていた時にその銅版画を見つけて、計画倒れの絵だったと再認識するとともに、何かに感じが似ていると思った。第一原発から流れる放射性物質の拡散シミュレーター画像だ。

img001


風の偏倚

風が偏倚して過ぎたあとでは
クレオソートを塗ったばかりの電柱や
逞しくも起伏する暗黒山稜や
  (虚空は古めかしい月汞にみち)
研ぎ澄まされた天河石天盤の半月
すべてこんなに錯綜した雲やそらの景観が
すきとほって巨大な過去になる
五日の月はさらに小さく副生し
意識のやうに移って行くちぎれた蛋白彩の雲
月の尖端をかすめて過ぎれば
そのまん中の厚いところは黒いのです
(風と嘆息との中にあらゆる世界の因子がある)
きららかにきらびやかにみだれて飛ぶ斷雲と
星雲のやうにうごかない天盤附屬の氷片の雲
  (それはつめたい虹をあげ)
いま硅酸の雲の大部が行き過ぎやうとするために
みちはなんべんもくらくなり
  (月あかりがこんなにみちにふると
   まへにはよく硫黄のにほひがのぼったのだが
   いまはその小さな硫黄の粒も
   風や酸素に溶かされてしまった)
じつに空は底のしれない洗ひがけの虚空で
月は水銀を塗られたでこぼこの噴火口からできてゐる
  (山もはやしもけふはひじやうに峻儼だ)
どんどん雲は月のおもてを研いで飛んでゆく
ひるまのはげしくすさまじい雨が
微塵からなにからすっかりとってしまったのだ
月の彎曲の内側から
白いあやしい気体が噴かれ
そのために却って一きれの雲がとかされて
  (杉の列はみんな黒眞珠の保護色)
そらそら、B氏のやったあの虹の交錯や顫ひと
苹果の未熟なハロウとが
あやしく天を覆ひだす
杉の列には山鳥がいっぱいに潜み
ペガススのあたりに立ってゐた
いま雲は一せいに散兵をしき
極めて堅實にすすんで行く
おゝ私のうしろの松倉山には
用意された一萬の硅化流紋凝灰岩の弾塊があり
川尻斷層のときから息を殺してまってゐて
私が腕時計を光らし過ぎれば落ちてくる
空気の透明度は水よりも強く
松倉山から生えた木は
敬虔に天に祈ってゐる
辛うじて赤いすすきの穂がゆらぎ
  (どうしてどうして松倉山の木は
   ひどくひどく風にあらびてゐるのだ
  あのごとごといふのがみんなそれだ)
呼吸のやうに月光はまた明るくなり
雲の遷色とダムを越える水の音
わたしの帽子の静寂と風の塊
いまくらくなり電車の單線ばかりまっすぐにのび
 レールとみちの粘土の可塑性
月はこの變厄のあひだ不思議な黄いろになってゐる

宮沢賢治 「春と修羅」より