民衆芸術運動(46)

大正九(一九二〇)年、日本橋三越での第一回農民美術製作品展覧会を終えても、山本鼎は休むまもなく奔走した。六月には大阪朝日新聞社主催の「世界児童自由画展」で講演を行い、美術雑誌『みずゑ』に「農民美術建業の趣意及其経緯」を寄稿、翌月には『中央公論』誌で「自由画教育の要点」を発表する。「自由画教育の要点」に関しては翌月の『中央公論』でいくつもの批判が掲載され論争も起きるが、自由画教育が各地に伝わるきっかけにもなっている。翌年には、日本児童自由画協会を日本自由教育協会に改変し、童謡作家の北原白秋、作曲家の弘田竜太郎、児童劇作家の斎田喬、小説家の畑耕一、アルス出版の北原鉄雄らを新たに同人として、絵のみならず芸術一般に関しての自由教育の必要性を発言するため『芸術自由教育』誌を刊行した。

「芸術教育」という、無形な大建築がはじまる
そして、この雑誌が、その設計事務所だ。
ここには、たくさんな技師が入る。
愛と、
智恵と、
勇気と、
自由をもった、たくさんの技師に
——『農民美術』創刊号

大正九(一九二〇)年の夏には、星野温泉のアトリエに滞在し、版画の代表作となる『ブルトンヌ』を完成させる。版画を芸術として発信していくために、鼎が設立した創作版画協会だったが、新進の版画家も輩出され、抽象表現よりの版画が多くなっていくとともに、リアリズムを是とする鼎の作品も過去のものとなっていったのだろうか、この作品を最後に、ほとんど版画を制作しなくなる。創作版画という言葉を生み出し、現在も「日本版画協会」として続く「日本創作版画協会」を立ち上げた鼎の美術作品としての版画は、生涯で三十点ほどしか制作されていない。