民衆芸術論|加藤一夫

 民衆運動即自省更生

 昨年(大正六年)十一月の中頃であった。自分のこれまでに書いた論文や詩を集め、「土の叫び地の囁き」と題して洛陽社より出版した。ところが、その本がまだ大売捌所に着いたか着かないうちに突然警視庁の役人が来て、発売禁止の旨を伝え、製本を没収して行ったばかりでなく、印刷に用いた紙型全部をまで奪って行った。
 これは実に自分にとっても洛陽社にとっても意外な事であるといえば余りに意外であった。何となればその本に収められた文章は皆一度、科学と文芸を初めとして中央公論、新潮、読売、六合雑誌、トルストイ研究、その他の諸雑誌に掲載したものであって、いずれの雑誌もみな無事に検閲官の検閲を通過したものだから、もちろん発売禁止などは夢想だにしていなかったからである。
 もっとも科学と文芸は昨年の五月に一度発売禁止を命ぜられたことがあったが、今度の「土の叫び地の囁き」には遠慮してその一文はのせない事にしている。ただ一昨年の三月に書いた「汎労働主義と実生活」という文章のために、自分は一度警視庁によばれた、探偵みた様な格好をした人から「こんなものを書いては困る、以後注意せよ」とお叱りをうけたことはあった。けれど、真実をいうとその一文は自分の新しい生活の基調をなすものの表白であり、今度の本の根本思想でもあるので、どうしてもそれをとり除くわけにはいかなかった。それも絶対にいけないといわれたのなら仕方なく止めるとしても、ただ注意せよ位であったのだからもちろん何等の差支えがないのだと思っていたのである。
 早速自分はなにが故の禁止であるか、又、いかなるところがいけないのかをききに内務省へ行った。警保局の安武という人が自分の本の係であって、同君に面会した。
 同君はさっそく自分の請いを容れてくれて「土の叫び地の囁き」のうちから「汎労働主義と実生活」「都会生活と田園生活」の二文章及び「流れゆくもの」という詩の三篇を取り除かねばならぬこと、及びその他は各文において四五行ないし十行位の不通過の場所を示してくれた。かくして全部で五六十頁ばかりも除かねばならぬのである。安武君の語るところによれば従来はかかることはしなかったが、これからは好意上著者にその意を通ずることにした(しかしこれはただ好意上の注意であつて、これだけ取り除いたならば必ずしも発売禁止の恐れが絶対にないというのではないのだそうである)まあこれだけでも政府の方では自由になったのであって従来に比ぶれば非常な進歩である。
 だが、これだけ進歩した政府が何故、自分の本を禁止したのであろう。人間はすべて労働しなければならぬという自分の主張は何でいけないのであろう。
 しかし自分は今、政府と争うつもりではない。ただこの機会において、自分たちの態度を明にしておく事の必要を感ずる。

 自分達はまず人間を信じるのである。
 自分達は何物をも信じ得なかった時にも、ただ一つ、自分自身の生きているという直接意識だけをもっていた。この意識は何らの力も如何ともすべからざる確実性を有している実存である。自分達の立場はこの自己の上に在る。
 もちろん、この「自己」といっても、そこに多くの問題が残されている。自己とは一体何であるか、色々の刺激や経験を統一する力を自己というのであるか、それとも、それよりもっと深いところにある、無念無想の状態をもって自己というのであるか。それとも仏教でいうようなあんあ涅槃の絶対境を自己というのであるか。あるいは、もしそんなものであるとすれば自己と他の生物とはいかなる関係にあるか、同じ共通なものがあるか否か、他の無生物と脈々相通ずるものがないかどうか、こうしたことはまだまだ研究の余地は沢山にある。
 自分達の要求はこれらの問題に無関心であることは出来ない。それ故に自分達は今後かかる研究を続けることを怠らない。
 しかしながら又、自分達はそのような問題にばかり没頭していることは出来ない。自分達は人間である。こうした体制をもち、こうした神経をもち、脳髄をもち、身体をもち、社会をもっている人間である。そしてそれが自分達の最も切実なる人生である。それ故に、自分達はこの人間としての世界と生活と思想と信念とを尊重する。
 そしてこの人間性の本質はそのままに実在そのものであり、そのままに尊いものであるのを信じる。我々は最早、神を天上に求むることを要しない、神は我々のうちに在る。我らはもし必要ならば、自分のうちに在る神に帰依し、融合し、礼拝すればよい。心の要求がこれを必要でないとすれば敢えてそんなことをする必要がない。何故ならば人間それ自身が即ち神だからである。
 これは我々が宗教を無用とする謂ではない。かえってその反対に、宗教をもって最始にして最終なる、また最高なる要求とする。何となれば我々の生界、否、もっと切実にいって、我々の刻々の生そのもの、生きているということが即ち、そのままに宗教だからである。我々にとっては宗教は方便でない、道具でない、宗教は我々の全部である。宗教は全生活を覆う。

 かくのごとく我々は人間性の尊重を思う。この自覚は即ち真の民衆の根本的要素である。
 民衆は何処に在りや。民衆とは単なる平民、労働者、貧困者、工人、農夫の謂ではない。否、彼らは民衆であるには余りに無知である。ああ彼らは余りに無知である。自己の真の価値を、全世界よりも尊い自己のほんとうの価値を、少しも自覚し得ない余りに哀れな無知である。民衆は又もちろん、遊情なる貴族、富豪、その他所いわゆる権力階級には存しない。彼らにしてもし真に人間性に目ざめたならば、今日の彼らのごとき不合理な生活に甘んじてはいられないはずである。真に人間性に目ざめたならば、彼らは常に何よりも先に自己改革を遂行しなければならないはずである。
 民衆とはただ、真にこの人間性に目ざめたものの中にのみ存する。それに目ざめて、この尊い人間性を研磨し、養成し、成長せしめ、自由に表現せしめんことを努る実行の人でなければならぬ。そのためには、彼は自己と他の一切の人類、生物無生物と全く関係のない、全然たる孤立的存在ではなく、それらの一切と有機的につながっている渾一的存在であるということに気づいて、そこに個人に立脚したる社会生活を構成せんとする念の切々として起こってくるものでなければならぬ。
 それ故に真の民衆は、平民とか貴族とかいった様な外的な区別によって選りわけることが出来ない。真の民衆はそのいずれにもない。同時にまたそのいずれにもある。人間としての自己の地位に本当に目ざめたそれらのものがそれである。

 我々は今、あらたなる熱心と勇気とをもって、民衆の心を伝え、民衆の心を歌い、民衆を表現し、民衆の新しき世界を建設せんと欲している。
 しかしながらこれは何によって得られるか。我々はここに明にいっておく。
 我々は単なる争闘を好むものでない。また我々は革命を鼓吹せんとするものでもない。否、かえって我々はかかる惨劇の行われることを厭う。我々はまた、われわれの眼から見て、たとえどんな不合理な生活をしているものに対しても相当の尊敬をはらうことを忘れない。何故なれば、彼らもまた尊い人間であるからである。少しばかりの過失のために尊い人間性そのものを滅ぼすことは我々の忍びないところである。
 ただ我々は心理を語ることを恐れないであろう。我々は心理を語る。そしてすべての人々にその心理を徹底せしめん事を欲する。そしてそれらの人々がその真理に従って自己を省察せんことを願う。そしてもし自分の生活がその真理に伴っているものであると知ったならば、各自に自己の生活を改めんことを祈求する。
 それ故に我々の運動は、社会主義的運動でもない、革命運動でもない。我々の運動は各自の反省運動である。自己革命運動である。これならば政府が我々を厭うはずがない。かえって喜ばねばならぬ。社会もまた我々に暴動を期待すべきでない。
 新しい自覚が今や多くの人々の間に目ざめ始めた。我々はこれらの真の民衆と共に、我々の心を伝え、心を歌い、それを芸術に表現せんことを欲する。
 これ我々が民衆芸術を主張し、またその様な具体的芸術を提供せんと欲する所以である。

—————— 六年・一二月 ——————