民衆芸術論|加藤一夫

 民衆は何処に在りや

 民衆芸術と云うことが問題になって居る。
 外国ではトルストイ、ケイ、ローラン等をその最も熱心なる主唱者とし、日本に於ては福田正男、百田宗治、富田砕花等の詩人を初めとして、本間久雄、大杉栄、内藤濯等の評論家が此主張者の尤なるものである。そういう自分も亦田舎の土百姓の息子に生まれた真の民衆の一人として、民衆の心を歌い、民衆の心を伝え、民衆そのものを表現せんとする熱心に於いては敢えて人後におしないつもりである。
 しかし、民衆芸術とは、一体何を意味するのであるか。メルンエは平民によって鼓吹せられ平民に見せる為めの平民劇と云った様なことを云ったそうであるし、大杉君は民衆のためにする、民衆によってつくられ、民衆の所有する芸術と云った様なことを云って居る。田中純氏の書いたものは見なかったけれど、大杉君の文章で見ると田中純氏も同じ様なことを云って居る様に見える。
 蓋しこれは民衆芸術の精神を伝うる言葉としては最上のものであろう。簡単にではあるが、民衆芸術の希望なり野心なり精神なりを十分に語って居る。
 トルストイはその芸術論に於て、この様な言葉をつかわなかったが、あの一篇の全精神は仍りこれをもって貫いて居る。彼は先づ演劇なり音楽なり絵画なり小説なりが、夥しき労働者の労力の消費によって製作され行われることを注意し、而もそれ等の多くの芸術が何等の慰籍をも力をも感情をもこれ等の労働者に分け与たうる事のないのを指摘して居る。そして芸術はかかるものであってはならない。単なる労働者の労力の消費であってはならないと云うことを云って居る。そしてまた、真の芸術は、自分で少しも労働をしたことのない、ほんとの人間らしい生活をしたことのない、ただ芸術を職業とした、所謂芸術家なるものの所産であってはならない。ほんとの芸術は、自分で食うとのために働き、ほんとの人間らしい生活をしたものが、自らの経験した感情を他人に伝えたい時にのみ存し得るものであるのを主張して居る。此精神も亦、民衆のために民衆によってつくられたる民衆の芸術でなければならぬと云うことに帰するものと云わねばならぬ。
 こうした主張の中には一つの溌剌たる新興の精神もしくは生命の生動して居ることが容易に感じられる筈である。新しい民衆が今目ざめた(たといそれが如何に少数であろうとも)その民衆は最早従来の多くの貴族的芸術では満足が出来ない。彼等は彼等自身の新しい生気ある芸術を要求する。否、単にそれを他より要求するに止まらず、自分で自分を芸術に表現しないでは居られない。それが此の新興人民の願いであり欲求でありそして一つの新しい活動である。
 過去の芸術は四分の三以上死んだものである。これはフランス芸術にのみ特殊の事実ではない。一般の事実である。過去の芸術は生には何の役にも立たない。却って往々生を害う恐れすらある。とロマン・ロオランは云って居る。そして彼は、容赦なく過去の劇をはねのけて、その中の僅かばかりを民衆のために採用して居る。同じ精神をもって、トルストイは更に峻厳なる批判をなし、過去の芸術の大部分を排斥して居る。
 自分の寡読は同じ権威をもって過去の芸術を排斥するだけの資格を自分には与えない。しかしながら少なくとも自分の呼んだり見たりした数少ない芸術のうちにも真に満足する事の出来ないものは少なくない。殊に日本のものに於て一層そんな気がする。日本の芸術は確かに今、向上し、発展しつつある。併し公平に見て、誰が今迄の藝術に十分の賛嘆を加え得よう。
 そうだ、新しい生命が今、民衆の中にあって(厳密に言って少数の民衆のうちに在りて)人類の間に生まれたのだ。それは最早従来の様な生気のない、生命の消耗しつくされた無気力な藝術には満足することが出来ない。また、民衆の苦しみを知らず悲しみを了解せず、そして生命に根柢を有していない、単なる独りよがりの藝術に一顧の注意を向ける必要もない。
 彼等は今、ほんとの人間を知ったのだ。人間のほんとの価値を知ったのだ。そして彼等自らがほんとの人間そのものになったのだ。彼等は此の人間性を阻害するあらゆる障壁に向かって戦を挑む。彼等は此の人間性を害われた一切の病的な思想や神経を排する。その様なものを唯一の本質であるかの如くに思って居る従来の貴族的な、又、弱々しい神経の、一切の藝術を排する。そして、此の過渡期に於ける復活の新生命として、かかる障碍や暴力や病的なる思想又は神経やと戦って人間性の真郷土に帰らんとする努力を示したところの、また帰り得たところの、生命の高揚を歌える新しい藝術を要求する。
 それ故に、真の目ざめたる民衆とは、真に人間となり、人間としての生活をなそうとする人民のことでなければならぬ。また民衆芸術とは真に人間になろうとする人間らしい感情と人間らしい意志や理性と、人間らしい生活とを具有する闘争の芸術でなければならぬ。人間の心の奥底に於て、誰にでもふれることの出来る、深い情味の豊かな芸術でなければならぬ。
 だが茲に一つの問題がある。
 それでは、我々の社会の何処にその民衆が存して居るかと云うことである。今云った様に目ざめた僅かばかりの人間は居る。しかし、そんな少数なもののためにのみする芸術は果して民衆芸術であろうか。民衆芸術の影響すべき世界は、もっともっと広いものではなかろうか。
 民衆芸術を論じたものは多い。しかしそのうちの殆んど誰もが、肝心のその民衆そのものに就いて語ったものはない。
 もっともこれは余りにわかりきったことであるかも知れない。殆んど説明のないものと思って居るのかも知れない。かくて或る者はこれを単に平民と云う言葉でもって表わし、或る者はこれを労働者という意味にとって居る。勿論それであるには違いない。だが、それ等の平民なり、労働者なり、農民なりにして、ほんとによく此の人間を自覚した新興の生命を何処にもって居るか。自分がさきに新しい民衆が目ざめたと云いながら、極少数のとつけ加えざるを得なかったのは此のためである。
 メルシエが平民と云ったときに、その平民とは誰を意味したのか自分は知らない。しかしトルストイが労働者と云った時に、その労働者とは果たして何人を意味したのかを察する事は難しくない。彼は朝から晩まで働きづめに働いて器械の様な単調無趣味な労作を繰返して居る人をもって真の労働者であると思ったであろうか。もしそうであるとしたら、そんな労働者がそんなに高貴な芸術を製作し得ると考えたと云うことになる。だが、何でトルストイともあろうものが、今日の労働者の状態を知らないで居られよう。彼の書いた殆ど何の本にでも此の悲惨な労働者の生活を語らないものはないと云ってもいい位である。あの様な小やみなき激労の後の疲れはてた肉体をもって、あの様に無趣味な器械的動作にのみ用いられる枯痩荒廃した精神をもって、トルストイの云う様な高貴なる芸術の製作されないのは勿論、彼等のために提供されたる芸術を享楽する心の余裕さえ有し得ないだろうと云うことをトルストイが知らないで居る筈がない。トルストイがここで謂う労働者とは、人間がその本然性に従って、また人間に本具した先天的義務に服従して、生活の為の適当なる労働をなし、そして人間としての本質的なる生活活動をなして居る人民のことであるのは云う迄もない。そう云う人間こそほんとの芸術を製作し得る。
 近頃はまた、戦争の一結果として、労働者なども大分景気がよくなって、中には一日三円五円の儲けをするものも少なくない。彼等の生活は吾々のそれに比べて何れだけいいかしれない。それで居て彼等は尚彼等の真の生活を創造する事が出来ない。彼等には自覚がない。まだ人間が生れない。
 然らば平民と云っても、労働者と云っても、それが直ちに、吾々の謂ゆる、真の意味の民衆ではあり得ない。
 それ故に、新しい民衆とは直ちに平民もしくは労働者を意味しない。それがほんとの民衆となるためには真に人間を自覚しなければならぬ。それ故にまた、新しい民衆となるためには真に人間を自覚しなければならぬ。それ故にまた、新しい民衆とは全く上流階級もしく知識階級に存しないと云うのではない。誰が、トルストイやドフトエフスキイやロマン・ロオランやなどを民衆でないと曰おう。上流階級者も知識階級者も、ほんとに自分の位置をさとって、自分の今の生活の不合理を感じて、そして、ほんとの人間になろうとする時に、又、なるために生活革命をなした時に、彼は最早貴族でない、富豪でない、彼は民衆の一人である。
 民衆とは即ちヒューマニティを遺憾なく生き得るもの、すくなくともヒューマニティーに生きようと努力するもの、全人類をヒューマニティの自由なる活動とせんとする者の謂である。

 然らば民衆は果して何処に居るのか。
 ロマン・ロウランが『諸君は平民芸術を欲するか。然らば先ず平民を持つ事から始めよ。その芸術をたのしむ事の出来る自由な精神をもって居る平民を。そして容赦のない労働や貧窮に踏みにじられない閑暇のある平民を。凡ゆる迷信や、右党若しくは左党の狂信に惑わされない平民を。自ら主人公たる、そして目下行われつつある闘争の勝利者たる平民を。ファウストは云った「始めに行為あり」と』と云ったは真実である。
 真の民衆はまだ存しないと云ってよいのだ。吾々は先ず民衆を得なければならないのだ。目ざめたる民衆は人類の新なる魂だ。人類はこれに聴かねばならぬ。人類は此の魂の打ちならす鐘に耳を聳てねばならぬ。目ざめたる魂は常にその人間性を研いて不断にこれを表現せねばならぬ。それは人類に対しての義務だ。生命に対しての最高の奉仕だ。
 芽ばえかけた新しい生命の幼木を踏みにじると云うことは、生命に対する大なる罪だ。生命は民衆の出現によってその自由なる世界を楽しまうとして居るでないか。そしてその世界の出現を目ざめたる民衆に托して居るでないか。そしてその努力と闘争との喜びを溢るるばかりに若き心霊のうちに盛って居るでないか。
 先ず自己のうちに平民を得よ。そしてまた人類のうちに平民を得よ。即ち人間性の真に徹せよ。人間性の絶対的価値を把握せよ。
 勇気と力と智恵と愛とは泉の様に湧いて来るであろう。そしてそこによき芸術は創造せられ、よき運動の波は打ちはじめられるであろう。
 吾々は自分の過去の罪障をも、現在の自分の弱いことをも無学であるのも凡てみなよく知って居る。けれどそれがために新しい生活への進行を阻まれる事はない。吾々は最早、上手とか下手とか云って居られない。技巧のことなんぞ云っては居られない。ただ一途に人間性の開展をはからねばならない。人間性の深みを掘らねばならない。
 芸術は生の終わるところから始まる。生が完成されたところには芸術はないと云った芸術家の野心は大きい。潔い。吾々の芸術は、徒にこまやかになった繊弱な神経に悪夢のように悩まされおびやかされて居る。謂ゆる現代人と称するものの芸術でない。一時青年の間に、近代人とか現代人とかの理想が流布して、何かと云えば、あの男は新しいとか旧いとか、まるで人間界が此の新旧の二分野しかないかの如くに語られた。しかし今や新なる民衆には、その謂ゆる現代人のすら心廃れ行くべき性質のものとなった。芸術は常に新しい生命を人類に持ち来すものでなければならぬのは云うまでもない。しかし何でも新しいものならいいと云う道理が何処にあるか。役にも立たぬ新しさは呪うべきである。役に立つ、ほんとの新しさはただそれが人間性に適応して居るか居ないかによってきまるのである。
 一つの力が人類の間に生まれかかって居る。ここに一つの新しい内発的な、ムーブメントが起るべきである。そして、自分はそれの起ることを確信するものだ。

—————— 六年・一一月 ——————