青年芸術家諸君!

 (1)

 青年芸術家諸君、彫刻家諸君、画家諸君、詩人諸君、音楽家諸君、——諸君は諸君の先駆者にインスピレーションを与えた聖火が、今日、諸君及び諸君の仲間に欠けていることを認めないか? 塀術が平凡になり、卑俗が流行していることを認めないか?
 そうあるのが当然ではなかろうか? 古代の世界を再発見して、新たに自然の泉に浴する歓喜——かの文芸復興時代の大傑作を創造した歓喜——は、最早今日の芸術には全く存在しない。革命r的思想は、今日まで甚だ冷淡に、芸術を見落として来た。〔註〕そして指導的理想のない今日の芸術は干乾びたリアリズムの中に理想を見出したかに信じている。そして木の葉の上の白露の球を色写真に撮ったり、或いは牝牛の脚の筋肉を模写したり、或いは息の根も止まるような臭いどぶの汚穢物や、醜劣な貴婦人の居間などを、散文や詩で、極めて精細に描写することに没頭して、それで芸術だと呼称している。

 〔註〕この文章は不幸にして今日では正当だという事は出来ない。私達は、今日、革命芸術なるものを持っている。私達は、現在では革命芸術以外の芸術を持っていないということを、すでに主張することさえ出来るかもしれぬ。今日もなお欠けているところのものは、芸術家と民衆の間の密接な友誼的な接触である。現代の全知識的生活の憫むべき情勢は、今日の芸術家が、民衆の最も高尚な、理想的な、芸術的な相貌や影響によって、また民衆と共に生活して、見事な芸術作品を創造しようとはせずに、徒らに、革命的情熱をその作品のなかで、すりへらしているという事実その物のなかに存する。そこで現代の芸術家——革命芸術家は芸術愛好者をもってはいる。けれど芸術家は彼の行為と結びついているところの、真に民衆に基礎を置いた芸術団体若しくは芸術協会を持ってはいない。(ドイツ訳の註に拠る)

 ——果たして然らば、一体どうすれば好いのか? と諸君は問うであろう。
 私はそれに対して答える。諸君が自分で持っているという聖火が、燻っている燈心のようなものであるならば、諸君は以前やった通りのことを尚続けて行くであろうし、諸君の芸術は小売商人のために店飾りをしてやったり、安歌劇に脚本を提供したり、亦新聞の文芸欄に雑文を書いたりするような職業にまで、急速に堕落して行くであろう。——否、諸君の大部分は、すでに非常な速力でこの坂道を下りつつあるのだ。
 けれども、若し諸君の心臓が真に人類の心臓と同音に脈打つならば、また真の詩人のように若し諸君が生命を聞く耳を持っているならば、諸君の周囲に打寄せている苦痛の海を目撃し、まのあたりに餓えのために死に行く人々や、鉱坑のなかに積み重なっている屍や、バリケードの上に重なり合って死んでいる手足のない死体や、シベリヤの雪の中や熱帯地方の孤島の沼地に、葬られるために駆り立てられる流刑者の長い列や、敗北者は苦痛の叫びを上げ、勝利者は歓呼する絶望的な争闘、臆病と勇敢さと、下劣な狡智と高尚な決意とが相争う絶望的な争闘を目撃して——諸君は到底、手を拱いて中立的な態度をとることは出来ないであろう。諸君は必ず私達のところにやって来て、被壓迫者の戦列に加わるであろう。何故ならば、美や、壮大や、生命そのものは光明のために、人類のために、正義のために、戦う者の味方であることを諸君は知っているからだ!

 諸君はついに私の言葉を遮って言う。
 「どうした間違いだ!」と、諸君は言うであろう。「若し抽象科学が贅沢品であり、医者の実務は虚偽であり、法律は不正を呼び起こすもので、機械の発明は盗奪器の発明にすぎず、学校は実際家の知識とは相容れないで壓迫され、革命的思想のない芸術はただ堕落するのみだと言うなら、外に為すべきこととして何が残るであろうか?」
 雄大な、最も愉快にやれる仕事——諸君の行為が諸君の良心と最も完全に調和する仕事、換言すれば、諸君の最も高尚な、最も活気ある性質を呼び起こすことの出来る仕事。
 その仕事はどんな仕事なのか?——私はそれを次に話そう。
 諸君のとるべき二つの道がある。諸君は永久に自分の良心を抂げて、そして或る日「俺がすべての娯楽を徹底的に享楽している間は、そして人々が馬鹿で、自分をそうさせておく間は、人道なんか、鬼に食わせてしまうことが出来る」などと放言するまでに到るか、若しくは諸君は社会主義者の戦列に加わって、社会の完全なる変革のために彼等と共に働くかの、二つのとるべき道がある。これは私たちの企てた説明が到達すべき必然的な結論である。これは周囲の事物を公平に判断し、ブルジョア的な教育と同僚の利己的観念によって暗示された詭弁とに惑わされない限り、知識ある人間の総てが、当然到達しなければならないところの論理的結論である。
 一度この結論に達した時に、然らば「何をなすべきであるか?」という問題が起こって来る。
 答えは容易だ。
 諸君が置かれているところの環境、労働者を獣物か何かのように呼び馴れている環境を棄てて、民衆の中に行って見よ。するとこの問題は自ら解決されるであろう。
 イギリスでも、ドイツでも、イタリーでも、またアメリカ合衆国でも、あらゆる国々に於いて、特権階級と被壓迫階級のあるところでは何処ででも、資本家の支配権によって課せられる奴隷制度を根底的に破壊し、正義と平等とを基調として新社会の基礎を築くことを目的とする激烈な運動が、労働者階級の間に行われていることを諸君は知るであろう。今ではもう民衆は、十八世紀における農奴が歌ったごとき、また今日も尚ロシアの農民の歌っているがごとき悲しい歌によって、その悲惨な境遇を叫ぶことでは満足しなくなった。民衆は自己の解放にとっての総ゆる障疑を取り除くには、如何にすれば好いかということを十分に意識して、今日、活動を続けている。
 彼の思想は、今日人類の四分の三にとって呪いであるところの生活を、如何にすれば総ての人に幸福になし得るかという問題を考えることで、いつも一杯になっている。彼は極めて困難な社会学上のこれ等の諸問題にぶつ掛かって、自己の常識と、自己の観察と、自己の悲惨な経験とをもってそれを解決しようと努力する。偶然にも、同僚と共通の理解にまで達したときには、彼は集団を組織することに努める。零細な金を集めて困難を切り抜けるために結社をこしらえる。国境を越えて、外国の同志と結び着くように努力する。国際間の戦争が起こり得ないような時代を早く来させるために、口先ばかりで我鳴り立てる博愛主義者などよりも遙かに多くのことをやっている。同志が何をしているかを知るために、彼等との親睦を増すために、その思想を練り、宣伝するために、彼は連続的な努力を費やして、その革命的な労働新聞を刊行する。何という果てしなき闘争だろう! 絶えずやり直さなくてはならぬ何と莫大な労働だろう!(訳註)時としては、迷走——衰弱と、堕落と、迫害の結果——のために起こった亀裂を埋めねばならない。時としては、一斉射撃と榴散弾のために破壊された戦列を再組織しなくてはならぬ。また時としては、大仕掛けな虐殺のために突然中断された研究を新たにやりなおさなくてはならぬ。

 (訳註)この数行は英文のパンフレット(マックス・エヌ・メイセル社版およびヰリアム・リーブス社版など)とフランス文「反逆者の言葉」の中のこの部分との間に、甚だしい相違が見出される。訳文は主として英文に拠ったので、今、フランス文及びそれによる忠実なドイツ訳を参照して、この部分だけを別に訳出して置く。
「………その革命的な労働新聞を刊行する。最後に時がやって来れば、歴史の示している如く、彼は奮起して、バリケードをその血潮をもって染めつつ、自由を奪還するために戦の中に突入する。富者と権力者は自由を自分達のみの特権に変えてしまうことを心得ていたのであるが、今や再びそれは民衆のものとなるのだ。
 如何に連続的な努力を、労働者階級の歴史は私達に示していることだろう! 何という果てしなき闘争だろう!………」
 故大杉栄氏訳「青年に訴う」は何をテキストに使ったか明白ではないがこの部分は、私の見た如何なる本よりも簡単になっている。「………零細な金を集めて其の困難を切り抜け、外国の平民階級と握手して国際間の戦争を未然に防ぐように努めている。其の効果は口先ばかりの人道家などの及ぶところではない。相識り相扶けて其の思想を練り、それを宣伝する為には万事を抛ってそれに当たり、投獄、追放、虐殺相次いで来ても屈せず、撓まず更に難戦苦闘を始めて行く。」とある。恐らくは何かの都合で要約したものであろう。
 尚以下の諸所にも、異本の間に文章の異同が甚だ多い。しかし今は煩を避けて一一それを挙げないことにする。

 新聞は食物と睡眠とが奪われているので、知識のほんの砕片を、暇なときに社会から盗むようにして習得せねばならなかった人々によって経営せられる。 アジテーションの運動は生活の必需品を、時としては乾びたパンを節約して寄付する労働者の一銭二銭の金によって維持されている。雇主からその労働者——その奴隷が社会主義者であることを知られるや否や、家族の者は忽ち路頭に迷ばねばならないので、彼等は絶えず不安に駆られながら、これ等すべてのことをやってのける。
 若し、諸君が民衆の中に這入りさえすれば、こうした事実を必ず知るであろう。
 この不断の戦において、困難の重圧の下に倒れながらも、労働者は幾度か叫んだ。一一「俺達を犠牲にして教育を受けたあの青年達は、今、何処にいるだろう? 彼等が勉強している間、俺達が着せてやり、食わせてやったのだ。彼等のために、重い荷物を担って背を曲げ、しかも空腹を忍んで、俺達はこれ等の家をこれ等の学校を、これ等の図書館を建ててやった。彼等のために、顔を蒼くして、俺達は読めもしないあの立派な書物を印刷してやった。人道の学問を自称しながら、人間を宛ても毛蟲の新種か何かのように見ている先生方は、今何処にいるであろう? 自由に就いてお説教をしながら、毎日足下に蹂躙されている俺達の自由を防護するために立ち上がることの決してないあいつ等は何処にいるのだろう? これ等の著述家、これ等の詩人、これ等の画家一一一口に言えば、この偽善者の一隊は、目に涙を浮かべて民衆の窮状をお喋りするけれども、俺達の運動を助けるためにいまだ嘗て俺達の中に来たことがない。」
 これを聞いた青年の或るものは、卑怯にも、冷淡に無関係の風を装い、他の多数のものは「衆愚」だといって軽蔑し、若し進んで彼等の特権を攻撃しようものなら、飛び掛かりそうな威勢を示すのだ。
 しかし時々、太鼓とバリケードを夢見て、何か刺激の強い景色や場所を探している若者が舞台の上に表れてくる。彼等はバリケードまでの道が遠く、運動は苦痛が多く、その上彼がこの途上で得ようと心構えている名誉の月桂冠には荊棘がまじっていることを知ると直ぐに、民衆の味方から遁げ出してしまう。
 かくの如き連中は、大抵野心深い小利口な冒険家に過ぎない。最初の企みが挫折すると、今度は民衆の投票を得ようと努める。然し、若も民衆が、彼等の宣伝した理論を敢て実践する段になると、彼等は第一にそれを否定する。指導者たる彼等がまだ指令を与えないうちに動こうものなら、彼等はプロレタリアートに向かって大砲をも向けかねないであろう。
 さらに、これに大多数の者が民衆に向かって投げつける馬鹿げた悪罵と、徒な軽蔑と、卑劣な詭弁とが加わるわけだ。 これが即ち強力な社会進化の途上にある民衆に対して、ブルジョアの青年が助力を与えたと称するところの全部である。
 然るに尚諸君は「我等は何を為すべきか?」などと尋ねる。何時すべてのことが為さるべきであるか!何時青年の全軍は民衆が着手した大事業に助力するために。その若々しい活動力を、その知識の力を、その才能を、使用すべきかを知るであろう!

 (2)

 詩人諸君、画家諸君、彫刻家諸君、音楽家諸君、若し諸君が諸君の真の使命と、芸術そのものの真の利害とを理解するならば、私達と一緒に来るが好い。諸君のペンと、諸君の画筆と、諸君の声と、諸君の思想とを、社会革命に役立てるために持って来給え。諸君の流暢な文章で、諸君の印象深い絵で、壓迫者に対抗する民衆の果敢なる有様を描け。私達の先駆者の心を燃した輝かしい革命的情熱をもって、青年の心を燃え上がらせよ。
 社会的解放の大事業にその生命を捧げている夫の生涯が、如何に貴い生涯であるかということを女どもに話してくれ! その今日の実際生活が如何に醜いものであるかを、民衆に示してくれ、諸君はこの醜悪の原因にまで触れて、これを暴露してくれ。合理的生活というものは、若しその一歩一歩毎に今日の社会秩序の馬鹿々々しさや、愚劣さにぶっかからないならば、如何なるものであるだろうかを、私達に語ってくれ。

(「青年に訴う」)