藝術と地球環境

たましひとイマージュ

 折口信夫の『原始信仰』の「たましひの所在」という一節を見てみましょう。

 此話に於て、第一に解決して置かねばならない事は、たましひの所在である。たましひは果して何處にゐるかといふ事である。  我々の古代人は、近代に於て考へられた様に、たましひは肉體内に常在して居るものだとは思つて居なかつた様である。少くとも肉體は、たましひの一時的假りの宿りだと考へて居たのは事實だと言へる。即、たましひの居る場所から、或期間だけ、假に人間の體内に入り來るもの、として居ると思はれる。日本に於けるとうてみずむの事實は、今のところでは、たましひに關聯して居る部分だけが、ややはつきりして居るに過ぎないのである。 さて、たましひの話であるが、先、説明を要する事實を、假りに前提として話を進めて見る。普通まなあと稱せられる、外來魂の信仰のあつた事から話して見る。  人間のたましひは、いつでも、外からやつて來て肉體に宿ると考へて居た。そして、その宿つた瞬間から、そのたましひの持つだけの威力を、宿られた人が持つ事になる。又、これが、その身體から遊離し去ると、それに伴う威力も落としてしまふ事になる。さふ言ふ考へは、確かすぎるほど我々の祖先には持たれて居たのである。
——折口信夫『原始信仰』 折口信夫全集 第二十巻 中央公論社 *昭和六年九月 「郷土科学講座1」

 たましいとか精霊といった、現代人の感覚では、有るような、無いような、テレビの心霊写真特集でしか見た事のないような、そんなあいまいな用語によって、ここまで、藝術と自然や大地といった地球環境について考察してきましたが、ここで述べられている「たましひ」を「イマージュ」という言葉に置き換えてみましょう。  アンリ・ベルグソンによると「イマージュ」とは、『物質とは、私たちにとって、「イマージュ」の総体なのである。そして「イマージュ」というものを、私たちは、観念論者が表象とよぶものよりはまさっているが、実在論者が事物とよぶものよりは劣っている存在“「事物」と「表象」の中間にある存在”と解する。このような物質の概念は、まったく常識のそれなのである。』としています。

イマージュの所在

 此話に於て、第一に解決して置かねばならない事は、イマージュの所在である。イマージュは果して何處にゐるかといふ事である。  我々の古代人は、近代に於て考へられた様に、イマージュは肉體内に常在して居るものだとは思つて居なかつた様である。少くとも肉體は、イマージュの一時的假りの宿りだと考へて居たのは事實だと言へる。即、イマージュの居る場所から、或期間だけ、假に人間の體内に入り來るもの、として居ると思はれる。日本に於けるとうてみずむの事實は、今のところでは、イマージュに關聯して居る部分だけが、ややはつきりして居るに過ぎないのである。  さて、イマージュの話であるが、先、説明を要する事實を、假りに前提として話を進めて見る。普通まなあと稱せられる、外來魂の信仰のあつた事から話して見る。  人間のイマージュは、いつでも、外からやつて來て肉體に宿ると考へて居た。そして、その宿つた瞬間から、そのイマージュの持つだけの威力を、宿られた人が持つ事になる。又、これが、その身體から遊離し去ると、それに伴う威力も落としてしまふ事になる。さふ言ふ考へは、確かすぎるほど我々の祖先には持たれて居たのである。
——ベルクソン『物質と記憶』 岩波文庫 

 「たましひ」は現代では「イマージュ」という言葉に変化しています。ベルグソンの定義に従えば、日本語ならば、イメージ・心象というよりも「もの」という言葉に近いもののようです。「たましひ」についての折口の考察において、「たましひ」という言葉を「イマージュ」と置き換えるだけで、ひとつの藝術論として現代に復活してきます。物事はパイのように、何枚もの薄い膜が重なり合うことにより、「もの」として私たちが認識できる状態を作り出しています。
 言葉の使い方一つ、考え方、捉え方、見る方法をすこし変えてみる事で、世界は変化します。特に、膜の層の襞の深部に埋め込まれた、神話や昔話から導き出される思考について、現代の状況に照らし合わせつつ考え直して見ることは、とても意味深いものなのではないかと私は考えます。