民衆芸術の意義及び価値

民衆芸術の意義及び価値

本間久雄

 一

 所謂民衆芸術ということが最近心ある人々の注目を惹くようになって来た。一体民衆芸術とはどう云う芸術を指すであろうか。特に民衆という文字及至文字に遭遇したそもそもの始めに於て、誰しも抱く疑問に相違ない。民衆とはいうまでもなく平民の謂である。すなわち上流階級を除いた中流階級以下労働階級のすべてを含んでいる一般民衆、一般平民の階級に属する人々である。従って、民衆芸術とは平民芸術ということに外ならない。更に言葉をくだいて云えば一般民衆乃至一般平民の芸術ということに外ならない。
 尤も、すべての芸術は見様に依っては一般民衆のための芸術であるとも云える。苟も真の芸術であるならば、今更事々しくトルストイの芸術論を借りるまでもなく、誰人にも、上下貴賤の一切の階級を絶して、誰人にも理解され、鑑賞さるべき種類のもの、トルストイの所謂「一般的芸術」であること無論である。従ってトルストイ一流の「一般的芸術」の立場に立つとき、特に民衆芸術なるものの存在理由を認めるに及ばないという結果にならないこともない。しかしながら、特に民衆のための芸術、平民のための芸術という以上、そこにはそれ独特の意義があるべき筈である。民衆のためならざる芸術、平民のためならざる芸術と対比して特に民衆のため、平民のためとして存在する特殊の意義がそこにあるべき筈である。かの浩澣なる『ジャン・クリフトフ』の著者として現に世界的文豪の一人に数えられるフランスのロマン・ロオラン氏は、その著『民衆劇場』に於て、又、かの現代における女流思想家の随一であるスウェーデンのエレン・ケイ女史は、その『更新的修養論』と題する意味深い長論文において、何れもこの民衆のための芸術、平民のための芸術ということの特殊の意義を論じている。私は、今これら就中ケイの上記の一篇を中心として所謂民衆芸術なるものの意義と並びにそれに伴って観察さるべき価値とを少しばかり考えて見ようと思う。

 二

 あるいは民衆のためといい、あるいは平民のためという。この場合、私たちの注意の焦点は依然として民衆乃至平民という言葉の含む概念そのものにある。これらの言葉は今も一言した通り、中流階級以下、最低級の労働階級のすべての人を含んでいる。しかしケイ女史並びにロオラン氏は、特に、最も多く、下流階級及び最低級の労働階級の人々ということに力点を附している。従ってこの二先輩に依って提唱された民衆芸術とは、とりも直さず労働者のための芸術ということに外ならないのである。さて、これら先覚者たちはどういう立場で、どういう態度で、又どういう論旨で、労働者階級のための芸術を主張しているか。
 エレン・ケイの『更新的修養論』の一篇は、最も鮮やかに、最も推理的に、又最も情熱的に以上の疑問に答えている。ここに改めて贅するまでもなくエレン・ケイという人は、「人生の使徒」といわれるほどの人生の熱愛者であるだけ、とりわけ労働者とか、下流社会の人々とかに対しては、常に慈母のような温情を向けている人である。女史は、現代の社会、殊に労働者階級の社会の惨めさと醜くさとを、人一倍深く感じ、そして人一倍深くそれを憐んでいる。そこには――中流階級も無論そうではあるが労働者階級は殊にそうである―烈しい生活難がある。物質上の不満の甚だしいものがある。そこには労働の過労があるばかりで、それに報いるに足る何等の慰安も何等の娯楽もない。そこには労働の極端な専門化と極端な機械化とがあるばかりで、人間と人間とが互いに抱き合うような情味や、人間としての生の享楽などいうことは薬にしたくもない。彼等の生活は全く文字通りの意味における荒れ果てた沙漠を亙るような生活である。そしてかかる枯れ果てた、情味のない、潤いのない、味いのない生活を送りつつある彼等は絶望的に、低劣な、不生産的な快楽に沈湎して、そしていよいよますます、個人としても、衆団としても、彼等は頽廃し堕落してゆく。そして、いよいよますます野蛮性を帯び、獣性を帯びた「蛮人」となってしまうのである。ケイはこう云う考えから、更に進んで、彼等労働者が、常に、精神上の統一がなく、又、その「風習が粗野であり無作法である」こと、及び「何等の内的感激なしに友人と交わって居り、彼等に取って適当である以上に多くの物を食って居り、彼等の趣味に合わない着物を着て居り、彼等が得る以上の金を費して居る」こととか、又は、彼等が彼等の生活に対して「さまざまの異なった部分を統一した一種適当なる均整、並びに彼等自身とその内的人格との間の調和にまで到達する」上の何等の計画をも持っていないことなどを一々指摘している。要するに彼等労働者には惨めさと醜さとがあるばかりである。
 蓋し、彼等労働者階級の人々の如上の惨めさと醜さとを救うにはどうすればよいか。エレン・ケイは次に思索をこの問題に転じている。女史の考えるところに依ると、彼等労働者を救うべき唯一の道は彼等を「教養する」にある。彼等個々人の生活の様式が「一層完全な諸形式を獲得する」ように彼等を教養するにある。そしてかく彼等を教養するためには、彼等のその糜爛し、疲弊し、困憊している心身に何より先づ一種の清涼剤を与えることに依って始めなければならない。そしてこの場合の清涼剤とはとりも直さず、彼等の心身に「更新」を与えるところの快楽である。
 女史は、この心身に「更新」を与える快楽ということを、更に別な言葉で、それはその人に「活動性」を与える快楽、乃至「生産的」な快楽、すなわち、精力の消費と供給との釣合のとれる快楽、「思想感情、意志を一層充実させるような快楽、更に新たな精神で、人生のもろもろの仕事に奮闘させるような快楽」更に一言で云えば所謂「生の増進」を○得るような快楽であると云い、転じてこう云う更新的快楽が現代の殊に労働者階級において等閑に附せられていることを喪心嘆いている。ケイ曰く、「あらゆる階級の中に大多数の人々は空虚な快楽に身を委せている。けれども、かくの如く空虚な快楽に身を委せることは労働者の階級において最も甚だしいものである。蓋し劣等なる快楽に耽ることに依って精神的に害を高蒙るということは、単に労働者の階級ばかりでなく、すべての階級の各個人に取って有害であるこというまでもないが、しかしながら、「第四の階級」たる労働者階級――人間全体の直接の将来の問題がその手中にある――がそういう精神の害を蒙るということは人類全体に取って遥かに有害であるからである。労働者の階級は、彼等の仕事に対する活力を増進させ強固にするためには、いかなる方法でも用いようとしている。従って彼等労働者が現に享楽している空虚な閑暇、又は彼等が得ようと望んでいる余暇の増加は、実際において無価値な享楽のために費やされているか、或いは又は真の更新のために。すなわち肉的又は心的なさまざまの力の更新のために費やされているかということが、最も重大な問題である。」
 生活が切迫すればするほど、人生が索漠になればなるほど彼等労働者は絶望的に空虚な、有害な、不生産的な快楽に身を委せるようになる。彼等は「彼等の生活の様式が、常に彼等の、より高い人生観及び常に美に対するより深い感覚を与えるものであるか否か」などということについては何等の注意をも払っていない。彼等はただ「大口を開いて笑ってさえ居られれば、又は騒々しく騒いでさえ居られれば、または酩酊したり夢中になったりしてさえ居られれば、それで彼等自身を享楽している」というのである。そしてそれが彼等自身の霊魂と肉体とに、如何云う悪影響を与えるかということについては何等の責任感も感じていない。事実又彼等労働者はそういう責任感を感じ得ないほど切羽詰まった状態にいるのである。乃至そういう責任感を感ずるには余りに彼等は心身共に疲れ果てているのである。併しながら、こういう心身の困憊疲労の状態は、いかようにしても改変されなければならない。彼等の外的状態、すなわち彼等の労働が彼等に適当なる配当を齎し得るような状態に彼等の境遇を改造することが無論必要な重大事ではあるが、それと共に、彼等の内的状態、すなわち彼等が個人として乃至社会の成員として一種教養ある人間としての内生活を送るように彼等を向上させなければならないのである。彼等をして、彼等自身、より価値なきものに対してより価値あるものを犠牲にしたり、またはわるいさまざまの習慣に無感覚であったりするという境地を脱することに拠って、「ただに一個のよりよき人間となるばかりでなく、その社会的理想の上から云っても一層よい理想の奉仕者」とならしめるような、そういう強化乃至教養を彼等に与えなければならないのである。
 蓋し、彼等労働階級の人々をして、かくの如く教養ある人々たらしめるところに、換言すれば如上更新的快楽を彼等労働者たちに与えるところに、現代に於ける教化運動の機関たらしめるところ、そこにこそ、所謂民衆芸術なるものの最も根底的な意義があるのである。とか~ケイは考えている。

 三

 エレン・ケイの教化機関乃至教化様式としての芸術ということから、直ちに思いおこされるのは、かの近英の大批評家マシュウ・アーノルドがその著『教化と無秩序』の中に於いて力説している主張である。
 マシュウ・アーノルドは近代の思想家中、最も多く教化の必要を高潮して、その時代の思潮及び風習のすべての分野に彌漫していたバーバリズム乃至フィリスチニズムに向かって痛烈に批難の矢を投げ与えた人である。彼は「教化」ということを以て「現代をして更によりよく、より幸福な世界たらしめようとする尊ぶべき渇望」に根ざした社会的な動機から生まれた努力で、一言で云えば「完全ということの研究」であると云い、そしてこの「教化」の中心要素は“sweetness & light”であると論じている。「教化は人間の一切の階級の区別を排除しようとする。それはこの世において知られた最善のものを、いずこいかなるところにも伝播しようとする。すべての人をして優雅と光明の雰囲気の中に生活させようとする。」彼はまた次のようにも云っている。「教養ある人とは社会の一端から他の一端へ、その時代の最善の知識、最上の観念を伝播させ、普及させようとする情熱を持っている人の謂である。すべての粗笨な、卑俗な、難解な、抽象的な、職業的の排他的知識を取り除いて、それらに代らせるに、ヒューマナイズされた知識を以てする人の謂である。」アーノルドはこう云って教化の必要を力説し、高潮し、そして、それから牽いて教化の一要素としての文学芸術の効果を暗示している。
 尤も、アーノルドが教化力説の対象としたのは、今からは四五十年も前の当時の英国一般の社会であって、ケイのように特に「民衆」「平民」又は労働者階級というように、ある限られた社会階級に焦点を置いたものでなかった。従ってまた特に民衆のための芸術ということの主張もアーノルドにおいては鮮やかには見られなかった。とは云え、彼が、いち早く今から半世紀も前において、一般の社会の分化の廃滅を認めて、それを痛嘆し、新たに文化教養の必要を力説したのは流石に一代の卓見と云わなければならぬ。ケイ女史並びにロオラン氏等の主張も、その対象の範疇こそ異なるが、一は平民階級、一は一般社会という――教化を説き、文化を説き、教養を説くその根本的要求及至態度に至っては共に軌を一にするものである。
 ただし、ケイ女史やロオラン氏等がこの教化運動を殊更に平民又は労働階級の人々に連関させて考えたのは、一つには前にも一言したように、現代における労働者階級が殊にケイの所謂「更新」を必要とするからであること云うまでもないが、一つはまたこの二先覚が平民又は労働者そのものに極めて文化の進展上重要な意味を認めているからであることまた云うまでもないのである。前に挙げたケイからの引用文に依っても明らかであるように、ケイは労働者階級を上流乃至中流の階級などよりも遥かに文化の進展上に重要視して「人類全体の直接の将来」が一に彼等の教化の如何に懸かっていると云い、ロウラン氏亦「只々第四階級たる労働階級が社会的改革と道徳的改革とを遂行し得るときこそ、私たちは真に新しい社会を獲得する時である」と宣明しているが、すなわちこれに依っても、ケイ女史やロオラン氏がいかに労働階級そのものを重要視しているかがわかる。同時に、これら先覚者たちの所謂民衆芸術なるものが、とりも直さず労働者階級のための芸術ということの別名であるという理由も亦おのずから明らかになるわけである。そして又同時に、ケイ女史が「芸術という言葉の適当な意味における芸術とは、すべての民衆の生活をして、次第次第に豊富ならしめ、現在よりは一層完全な将来の実在ということの直覚を呼びおこすような芸術」と云っている芸術、ロウラン氏が「再生の湯船にも比すべき芸術、人間相互の間に一層完全な覊伴を創造し、個人々々の間に一層偉大なる勇気を創造するような芸術」と云っている芸術、乃至はやはりロウラン氏が「芸術をして一切の圧性、一切の卑俗、一切の悪徳を憎悪する一念を民衆に喚起せしめよ。そして、更により深厚な同胞感を抱かしめるものたらしめよ」と云っている芸術、そう云う芸術を、何故にケイ女史やロオラン氏等が民衆芸術の主張として掲げ出しているかということも容易に推測し得べきことである。

 四

 以上で、所謂民衆芸術なるものの意義、換言すればその目的観の上から見た意義の大よそを述べ終わった。すなわち一般平民乃至労働者階級の教化運動の機関乃至様式としての所謂民衆芸術の意義ということの大よそを述べ終わった。次に問題となるのは、民衆芸術そのものの形式である。言葉を換えて云えば如上民衆芸術たるためには、いかなる形式の芸術が最も効果があるかという問題である。詩、絵画、彫刻、音楽乃至演劇の何れが果たして最も多く効果があるかという問題である。無論これらの芸術形式は本質的に云えば、それ自らに於いて、すでに民衆芸術たる可能性を持っている。しかしながら苟も民衆芸術ということを力説する以上、その「民衆のため」ということの条件に準じて、そこに適不適の形式の生じて来るのは自然のことである。この立場から見るとき民衆芸術として最も好適なものは云うまでもなく演劇乃至演劇類似の芸術である。というのは演劇は今更云うまでもなく所謂総合芸術の最好典型であって、最大多数の最大快楽を勝ち得るものであるからである。そして又ここに云う「民衆のため」とは、前にもしばしば述べたように労働者階級の人々のためという意味であるから、その芸術は、所謂「高等文芸」とはちがって、彼等労働者にもよく鑑賞され、理解されるほど、普遍的な、非専門的なものでなければならない。従って、民衆芸術の最高典型は、最も普遍性を帯びた、そして通俗的な演劇であって、而も如上の条件に適した演劇を上演することにその最善を尽くしているといわれている。例のオーベルアンメルゴーの受難劇の如き、又はその他、現に独逸、瑞西などの各地で流行している「野外劇場」の如きも亦、その目的とするところは如上の民衆教化にあるといわれている。そしてこの種の所謂民衆劇場及び所謂野外劇場の多くは、すでに今日、民衆芸術としてそれぞれにその効果を収めているといわれている。
 エレン・ケイは、民衆芸術の一形式として――というと語弊があるかも知れないが、少なくも民衆芸術たり得る要素として――如上演劇の他に、活動写真、素人芝居、年中行事等も数えている。たしかに、これらのものは労働階級の教化運動としてはその利用の仕工合に依っては極めて効果のあるものである。ケイは素人芝居を以って、労働階級の青年男女が、依って以って最もよく自分の活動性を表現し得るものであるということを例証評論し、又年中行事ということも、仕方に依っては、「老人をして追懐の中に幸福を成せしめ、青年をして勝利の中に幸福を感ぜしめ、乃至小児をして同様な希望の中に幸福を感ぜしめ」たり、その他索漠たる人生にさまざまの色彩と味わいとを付加するものであることを述べている。この点においては云うまでもなくケイの見解は肯綮に中る。もし夫れ、活動写真が労働階級に取って教化的立場から最も効果の多いものであるということはケイを待つまでもなく、誰人も容易に推測し得ることである。しかしケイは、一面に於いて、活動写真が今は堕落していること、すなわちその映画の多くが、徒に卑劣であり、徒に猥雑であり、徒に挑発的であって、却ってこれに倣って現代の労働階級の人々の多くが悪影響を受けつつあることを認め、その点に向かって痛烈な批判を加え、心在る人々は「社会民主主義が資本家たちの無法の徴収に、断固として反対することとおなじく、こういう娯楽上の興行主の無法の徴収――性格、知識、感情の――にも断固として反対しなければならない」と云って、活動写真をして何よりも先ず教化運動の具、すなわち民衆芸術としての活動写真たらしめることを力説している。これ又肯綮に中る主張であることはいうまでもない。
 民衆芸術は、上来述べた通り、所謂「高等文芸」乃至専門的な予備知識を持たなければ了解されないような高級芸術とは全然異なったものである。私は今ここにこの両者の価値を比較しようとするものではない。しかしながら、通俗的であり、非専門的であるという故を以って、所謂民衆芸術そのものの価値を無みしてはならない。否、「新社会的環境の想像力」の暗示とし、機縁としての芸術ということを高潮しているかのギュヨーなどの社会学的美学の立場から云えば、寧ろ、民衆芸術そのものこそ、最も価値ある芸術となるわけである。実にギュヨーの所謂新社会的環境創造の機縁であり、乃至彼等民衆に取っての「よりよき生活へ」の暗示であるところに所謂民主芸術の一切の価値がかかっているのである。
 翻って思うに、我が国の現時の状況の如き、とりも直さず、また、如上民衆芸術を最も多く必要とするものではないであろうか。私たちは今更のように、この偉大なる先覚者エレン・ケイやロマン・ロオランの叫びに耳を傾けずには居られない。